キリシタン一揆の立て籠もった城。
原城
所在地
別名
長崎県南島原市南有馬町乙
:有馬城、日暮城
築城者
築城年
:有馬貴純
:明応5年(1496)


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■キリシタン禁制

 戦国時代を終息へと導いた三人の天下人。織田信長がキリスト教に対して寛容だったのに対し、豊臣秀吉、徳川家康は布教を禁じる政策を採っています。信長の場合、自身の覇業の妨げとなる日本の仏教を牽制し、また南蛮交易を促進する意図があったなどとも言われていますが、秀吉の頃になるとキリスト教の布教とヨーロッパ列強の植民地支配が表裏一体のものであると認識されるようになり、時期により多少の変遷はあるものの、時々の支配者はこれを警戒する方向に進んでいきます。こうした路線は、江戸幕府三代将軍家光の頃になるとほぼ確定的なものになります。そして一部で苛烈を極めた禁教政策や無慈悲とも言える政治を行った領主に対する民衆の不満などが爆発したものこそ、寛永14年(1637)に勃発した島原の乱でした。原城はこの時、一揆勢が立て籠もった城として知られています。
 城の歴史は15世紀末の明応5年(1496)に始まり、もとは有馬貴純が居城・日野江城の支城として築いたものでした。島原湾に面する要害の地でしたが、古い時代のことはあまり分かっていないようです。皮肉な事に、有馬氏が日向国へ移封となり、代わって大和からやって来た松倉重政が元和の一国一城令を受けて廃城後、領主の厳しい政策に反発して蜂起した島原・天草の農民の拠点として利用されるに至って、ようやく歴史上にその名を深く刻むようになった城と言う雰囲気です。
 

■島原の圧政

 松倉氏による支配は厳しいものだったと伝えられており、「百姓は生かさず殺さず」では済まない過酷な藩政下、農民は畑のナスの実の数までも領主に把握されていて、絞れるものは徹底的に搾り取られると言う有様でした。一説には、松倉氏が自身の石高に対して不相応に立派な島原城を築いたために藩の財政が逼迫し、結果農民からの搾取も度を越したものになって行ったとも言われています。ちなみに、廃城となった原城の部材は、問題の島原城築城に転用されています。キリスト教政策に関しては、もともとキリシタンの多い土地だったため、幕府からの覚えをめでたくするために拙速に過ぎる政策に走ったのでしょうか。
 寛永11年(1634)は、全国的な大凶作の年でした。それは島原地方も例外ではありませんでしたが、領主による年貢の取立ての厳しさは例年と変わりませんでした。こうした中、口之津の百姓・与三右衛門なる人物が年貢を納める事ができなかったため身重の妻を質に取られ、水牢に入れられた妻が子共々殺されるという事件が発生しました。たまりにたまった農民達の不満はこの一件を契機に爆発し、ついに与三右衛門とその仲間達は代官所を襲って役人を殺害しました。この報は各地で虐げられていた者たちを勢いづかせたのでしょう、ついには島原の対岸で島原と同じように、肥前唐津の寺沢氏によって圧政を敷かれていた天草の農民達までもが、島原の一揆に合流しました。
 こうした中で現れたのが天草四郎時貞でした。
 

■原城無残

 四郎の登場は、島原の乱が持つ複雑な事情を示唆するものであると言えます。まず第一に、幾分か伝説めいた逸話によれば、四郎の登場は乱以前に予言されていたキリシタンの救世主の出現と時期を同じくしていました。当時16歳の若年だった四郎が一軍の指導者としてカリスマを保ち得たのは、彼が起こしたとされる宗教的奇跡と件の予言とがあいまってのことだったのでしょう。あるいは彼が起こした奇跡自体が、一揆の精神的支柱を求めた農民達のマッチポンプであったと考えることも可能です。
四郎はまた、かつての肥後領主で、関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子であったと伝えられています。実を言えば島原の乱は、単に農民だけが寄り集まった一揆ではなく、小西氏の遺臣に代表される浪人層も相当数含まれていたと考えられています。小西氏の流れを汲む四郎が一揆の中心人物となったのは、その点からも必然であったのかもしれません。
 農民ばかりでなく武士階級も巻き込んで原城に立て籠もった一揆勢の総数は二万七千とも三万七千とも。彼らが3ヶ月にわたって幕府軍を相手に抗戦を続けられたのは、彼らが戦術に長けた武士階級によって統率され、単なる烏合の衆で終わらなかった事も大きいのでしょう。あるいは、大坂の陣以降20年近くも太平の世が続き、幕府方すら戦の仕方を忘れかけていたという事情もあるのかもしれません。幕府方は上使として派遣した板倉重昌が討ち死にするなど思いもかけない苦戦を強いられながらも、原城の糧道を断ち、オランダ船に海上からの砲撃を依頼するなどして攻撃を続け、最終的にはただ一人の内通者であった山田右衛門作を除いて一揆勢を全滅させました。
 乱の鎮圧後、幕府によって徹底的に破却された原城ですが、一部に石垣や堀の跡などが残されています。本丸跡には天草四郎の墓と伝えられるものが移設されている他、十字架が建てられおり、弾圧されたキリシタンの悲しみを今に伝えているようでもあります。実際には史跡原城として公開されているのよりも幾分か広い範囲に城郭遺構が存在しています。また原城界隈にはキリシタンがらみの史跡も多く、城跡と一緒に回ってみるのも島原の乱の全容を知る上で有用でしょう。


(2008年03月01日 初掲)



























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