今川お家騒動の舞台となった城。
花倉城
所在地
別名
静岡県藤枝市西方
:葉梨城
築城者
築城年
:今川範氏
:正平7年(南)/観応3年(北)/文和元年(北)(1352)


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■今川範氏の駿河入国

 駿遠の国境近くにあった花倉城は、戦国時代に駿河の国主となった今川氏と縁深い城でした。そもそも花倉城は、遠江守護の任に就いていた今川氏が駿河に進出するために築いた城です。建武4年/延元2年(1337)、時の今川当主・今川範国は、旧来の遠江に加え駿河葉梨庄に所領を与えられました。
 同時期に皇統は北朝・南朝の二つに分裂しており、いわゆる南北朝時代が始まったのはこの時期の事です。範国は北朝の足利尊氏に従って軍功を上げ、その論功行賞で葉梨庄を得たのですが、当時の駿河は南朝勢力が優越的で、彼らは新たにこの地を領有することになった今川氏の干渉を強硬に跳ね除けていました。
 そこで範国は、山城国の御家人であった松井助宗に葉梨庄を与え、彼を駿河進出の尖兵にすると共に、同地をその橋頭堡としています。以後は実に15年の歳月をかけて駿河国内の敵対勢力を切り崩していきました。こうして駿河の情勢が安定の兆しを見せた観応3年/正平7年(1352)、今度は改めて範国の嫡子・範氏が葉梨庄に入り、同地に今川氏の居館と、詰の城となる花倉城を築きました。

■花倉の乱

 時は流れて大永5年(1525)。今川氏は一族の内訌を経ながらも、叔父・伊勢盛時(北条早雲)の補佐を受けた当主氏親の元に結束していました。分国法「今川仮名目録」を定めて駿河の支配体制を確立するのみならず、甲斐に進出して武田信虎と争い、一時は失った遠江の支配権を回復し、時には三河にまで進出するなど、着実に国力を高めています。氏親の代に今川氏は戦国大名化を果たしました。
 氏親の跡目を継いだのは氏輝でしたが、その氏輝が天文5年(1536)に24歳の若さで嫡子を残さず急死し、さらに次兄である彦五郎もが氏輝と同じ時に死んだことから、今川家中で再びお家騒動が勃発します。家督を巡って争ったのは氏親の二人の弟、栴岳承芳(義元)と玄広恵深(良真)でした。この家督争いは、年少でありながら今川の正統だった義元に対し、年長の庶子良真が反旗を翻したという構図のものでした。還俗前の良真は葉梨庄にあった遍照光寺の住職を務めていたこともあり、母の実家で今川の有力家臣でもあった福島氏に擁立されて花倉城に籠もって義元派と対決しましたが、義元派が小田原北条氏の後援を受けたこともあって旗色は急速に悪化していきます。そして義元派の総攻撃を受け、ついに花倉城は落城。良真は落ち延びた先で自刃し、この家督争いは終結しました。一連の戦いは、決戦地となった花倉城の名前を取って、花倉の乱と呼ばれています。

■のどかな山歩き

 藤枝市の郊外に残る花倉城址ですが、さほど急峻な山城という雰囲気ではありません。登城口まで、茶畑とみかん畑とに囲まれたいかにも静岡と言う牧歌的ムードの山道を進むことになるせいかも知れません。もっとも、茶畑・みかん畑は山麓の葉梨地区から見るとそれなりの高度差がある山上に広がっていますから、有事の際にはやはり頼れる拠点だったのでしょうか。
 主郭部は烏帽子形山の支峰・標高297mの城山山頂付近に広がり、東西140m・南北360mほどの規模を有しています。いくつかの曲輪やそれに付随する帯曲輪など削平を施された形跡のある場所も認められますが、それ以外の遺構で目を引くものとなると、土塁や土橋、小規模な空堀程度しかなく、城跡としてはやや地味な印象を拭えません。花倉城がいつ頃まで利用されていたのかについてははっきりしたことが分かっておらず、後に駿河の支配者となる武田氏系の特徴的築城技法が投入されているようにも見えず、武田氏による駿河侵攻の頃には廃れていったのかもしれません。
 そんな花倉城ですが、前述したのどかな山道の風景とも合わせて、ハイキングコースの一部としての人気があるようです。また、葉梨地区には今川氏居館跡や、徳川家康の師としても知られる太原雪斎の菩提寺である長慶寺などの史跡も数多く存在します。

(2009年01月13日 初掲)





















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