家康臥薪嘗胆の17年と出世城。
浜松城
所在地
別名
静岡県浜松市中区元城町
:曳馬城、引馬城
築城者
築城年
:今川氏
:永正年間(1504〜1521)


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■曳馬古城から浜松城へ

 浜松城の前身は、大永年間に今川氏が築いたとされる曳馬城(引馬城)です。もっとも、曳馬城を改修して家康が自身の居城としたのではなく、曳馬城址は現在の浜松市体育館あたり、東照宮付近にあります。曳馬古城を拡張して浜松城としたと言って良いでしょう。
 桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、その流れで家康が独立を果たした頃の曳馬城主は飯尾連竜でした。連竜は義元の後を継いだ氏真を見限って家康に内通しますが、結局は氏真に誅殺される結果に終わりました。その後家康は、永禄11年(1568)には甲斐の武田信玄と結んで今川領への進行を開始し、この地を掌握しました。領国の西側を同盟者である信長に押さえられている形の家康は、息子の信康に岡崎城を任せて武田氏と境界を接する形になった自領の東部、すなわち遠江に居城を移すことを考えます。当初は天竜川よりも東の、文字通りの最前線基地に新たな城を築こうとしていた節がありますが、結局は信長の助言を得て曳馬の地に浜松城を築くことになりました。在城期間は元亀元年(1570)から天正14年(1586)までの17年間で、戦国大名としての家康の実績のほとんどがこの間に集中しています。ちなみに城を完成形に持っていったのは豊臣系の大名である堀尾吉晴のようです。
 

■その後の浜松城

 江戸時代になってからはさまざまに城主を変えながら明治まで存続しています。幕閣の間では「出生城」として知られ、歴代城主からは水野忠邦をはじめ五人が老中の大任に就いた他、幕府の要職に就く者が多く現れました。
 現在あるのは再建天守です。城郭建築は明治を迎えた頃に解体されました。また、後年の戦災によって城以外の史跡もほとんどが失われるなど、浜松は歴史的遺産に関してはかなり不遇をかこっているようです。詳細は後述。
 浜松城では創建当時から400年残されている野面積みの石垣が有名です。野面積みは石垣の工法としては最初期のもので、基本的には自然石をそのまま積み上げただけのもので、後年の打ち込みはぎ、切り込みはぎなどに比べて低い石垣しか築けなかったのですが、それでも立派に400年の風雨に耐えています。
 

■家康と浜松城

 浜松城内の展示では、それら家康の履歴を飾る多くの合戦の中でも、武田信玄と戦い、後の天下人をして絶体絶命の恐怖を味あわせた三方ヶ原の戦いに力を入れているようです。有名な「しかみ像」や戦場からの退却時に恐怖のあまり脱糞したエピソード、餅屋と老婆の伝説に至るまで、下手をすれば家康の恥部となるような多くの展示が行われています。
 資料性に関しては、浜松城からわりあい近くにある犀ヶ崖資料館の方が高いかもしれません。無料の施設ながら、めぐり合わせがよければ(?)館員の方から家康と浜松に関係する多くの史跡についてのレクチャーを受けられます。こちらからの質問にまで答えてもらえる懇切丁寧ぶりですが、そのときの話だと浜松には家康に関する資料が意外なほどわずかにしか残されていないとのこと。どうやらそのあたりの事情をフォローするために信玄との絡みを多くしている様子。三方ヶ原の戦いに関する史跡も国道257号線伝いに集中していますが、後年になって建てられた石碑などが主で、歴史的な意義はあまりないようです。
 

(2008年03月01日 初掲)















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