日本海に面する毛利氏の海城。
萩城
所在地
別名
山口県萩市堀内
:指月城
築城者
築城年
:毛利輝元
:慶長9年(1604)


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■輝元の落魄

 謀略を用いて中国地方に一大勢力を築き上げた毛利元就は、謀将らしい細心さで、後継者の輝元に遺訓を残しています。元就が孫に言い含めたのは「天下を狙わずお家の繁栄を第一とせよ」と言う事でした。しかし輝元は、関ヶ原の戦いに臨んでは、好条件で石田三成に担ぎ出され、西軍総大将の座に就いています。もともと三成と徳川家康の政争と言う色合いの濃い争いでしたが、実力面において三成では家康に大きく見劣りするため、家康の形式上の対抗馬として、豊臣政権下ナンバー2の輝元に白羽の矢が立ったのでした。
 戦いの結果は、もちろん西軍の完敗。百二十万石の太守は、父祖以来暮らした安芸国をはじめ六ヶ国に及ぶ領国を削られ、防長二ヶ国三十七万石という並みの大名の座に甘んじる事になりました。そしてまた、毛利氏が安芸国を後にするという事は、戦の先年に当たる慶長4年(1599)に完成した本城・広島城を手放す事を意味しました。

■新たな居城

 居城を失う形になった輝元は、やむなく周防・長門のうちに新城を築く事になります。当初候補地とされたのは防府、山口、そして萩の三箇所でしたが、幕府の許可を受け、慶長9年(1604)に萩指月山麓で着工することになりました。城地は阿武川のデルタ地帯に位置していましたが、当時の指月山麓は満潮時には海底に没する場所だったと言われており、築城工事はまず付近の埋め立てを伴うものでした。
 突貫工事であったとは言え、竣工までには4年の歳月を要しました。工事中には城の部材として集められた石をめぐって家臣間でのいさかいが発生しており、この中で元就の頃からの老臣・熊谷元直が粛清されるなど、毛利家中に大きな影響を及ぼす事件も発生しています。
 形態上、平山城に分類される萩城は、指月山の山麓部に本丸と二の丸、三の丸を備え、山頂部に詰丸を持っていました。もっとも、山麓と山頂の連絡はさほど密ではなく、詰丸の役割は戦国時代の詰の城にも似たものだったと言って良いでしょう。
 以後、萩城は二百六十年あまりに渡って長州藩の政庁としての機能を果たしましたが、幕末の文久3年(1863)、山口政事堂にその役目を譲りました。もともと毛利領国内でも北に偏する土地という不便さに加え、外国艦船の海上砲撃を避ける意味合いもあったようです。その後の明治7年(1874)には、廃城令によって天守や櫓と言った建物が破却されました。明治初年の萩城を撮影した写真には、望楼型の天守閣が映し出されています。

■多くの側面を覗かせる城

 現在の萩城址で比較的城跡らしさを保っているのは、本丸跡です。二の丸跡にも門跡や枡形は残されていますが、通り沿いに一般の家屋が建っていることもあり、ちょっと非日常の風景にはかけるきらいがあります。
 今も水をたたえる内堀に囲まれた本丸跡には茶室や茶亭、書院などの建物がありますが、広さはそれほどでもなく、かの戦国大名毛利氏の流れを受け継ぐ城としては小ぶりという印象を否めません。萩城をもっとも象徴する風景は、二の丸と本丸を結ぶ橋の上から眺める天守台でしょう。石垣と水堀の調和が美しい城です。
 これに対し、本丸の北東から十分余り山道を歩き続けるとたどり着く詰丸跡は、いくらか野趣を感じさせる場所となっています。指月山の山頂を削って造られた曲輪には石垣が築かれ、近年に復元されたものなのか城壁が一部に存在し、要害門跡の枡形や貯水池跡が残ります。反面、木が生い茂るため展望はあまり期待できず、山道にもいくつか急な箇所があります。それなりの城マニアでもなければ、本丸跡だけを見て済ませてしまった方が無難かもしれません。

(2009年09月08日 初掲)





















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