北条氏の残した崖城。
鉢形城
所在地
別名
埼玉県大里郡寄居町鉢形
:なし
築城者
築城年
:長尾景春
:文明8年(1476)


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■長尾景春の反乱

 多分に伝説めいた伝承によれば、最初に鉢形城を築いたのは平将門だとも言われています。残念ながら、確かな史料による裏づけのない言い伝えで、関東に良く見られる将門伝説の一例だと評価するのが妥当でしょうが、裏を返せばこの城が、ある程度古い歴史を持っていることの裏づけであると言うこともできます。将門伝説はさておいて、もっと信憑性のある史料によれば、鉢形城は文明8年(1476)長尾景春築城によるもの、と言うことになります。
 景春は関東管領山内上杉氏に属する武将で、景春の父・景信は、上杉家中においては家宰の職に就いていました。家宰と言うのは若干説明の難しい職ですが、簡単に言ってしまえば、時代劇で良く聞く家老と同じ、主君は別格にした範囲における家中の最高権力者程度に思っておけば良いでしょう。父がそうであった以上、順当に行けば子の景春が家宰職を継承するかと思われましたが、そうはならなかったために、主家に対して叛意を抱いた景春が、鉢形城を築いて反乱を起こしたと言うのが城の始まりだと考えられています。

■北条の城として

 その後、詳細な経緯は不明ながら、城は小田原北条氏の支配下に置かれました。おそらくは、河越夜戦の敗北によって上杉氏が武蔵国一円への影響力を失った時に、鉢形城もその支配を離れたのでしょう。
 荒川に面した断崖上に築かれた鉢形城は、典型的な天然の要害と言って良く、北条氏からも重視されたようです。今日の城跡で見られる遺構の多くは、実質的に北条氏時代の北条氏邦によって整備されたものと考えて良さそうです。その立地上、信州との接点であると同時に北関東への入り口と言えた鉢形城は、関東進出をもくろむ武田信玄、そして越後からたびたび関東に出兵してきた上杉謙信の攻勢にさらされたこともありますが、その都度防衛には成功していたようです。
 しかし、北条氏最後の戦いとなった小田原役に際してはさすがに相手が悪く、前田利家、上杉景勝といった北国軍や、徳川家康は配下の本多忠勝といった面々によって攻め落とされています。すべての戦いが終わった後、徳川家康は北条氏の領地を継承することになりましたが、鉢形城はこの時期に廃されたものと考えられます。

■保存された城跡

 鉢形城址は、関東屈指の規模を誇る平山城跡です。寄居の市街に近接してはいるものの、昭和7年(1933)という早い時期に国指定の史跡となったのが幸いし、曲輪の大半は市街化されずに残りました。
 現在のアクセスルートはいろいろ考えられますが、寄居駅に通じる県道が走る東側から城跡に到達するルートが最も一般的でしょうか。こうして城跡にたどり着いた場合、城域に入るや本曲輪と考えられている場所に行き着きます。いわゆる本丸、城の中枢部だった地区で、すなはち東からの進入路は、往時ならば搦め手に当たるルートだったことになります。鉢形城は、北に荒川の崖を擁し、東南方向とは高低差があったため、東南北への守りは堅かったものの西側への防備が弱点だったと現地の案内板では解説されており、特に西側に集中して土木工事が行われたということです。今では城の西にJRの線路が敷設されているため、この点に関しては昔を想像しにくくなっているかもしれません。
 現在の城跡は、木立によって現代的な構造物の存在する外界から隔てられた空間に、開放的な芝生広場が広がっています。至る所にあしらわれた三つ鱗紋から、ここが北条氏の城であったことが実感されます。もちろん単なる都市公園となっているのではなく、広場の其処此処は土塁によって区切られると共に、石垣や馬出の跡も残され、往古の曲輪の存在がしみじみと感じられます。城の造営には各大名家の思想が色濃く現れますが、鉢形城址に広がる風景こそが、北条氏の流儀だったのでしょう。

(2008年11月04日 初掲)





















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