肥後国人一揆有数の戦場となった城。
肥後田中城
所在地
別名
熊本県玉名郡和水町和仁
:和仁城
築城者
築城年
:和仁氏?
:不明


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■佐々成政の肥後入りと国人一揆

 柴田勝家の与力大名であった佐々成政は、勝家が羽柴秀吉との戦いに敗れた後、周辺国を親秀吉の大名に固められながらも、越中富山城にあって秀吉との対決姿勢を崩しませんでしたが、天正13年(1585)になってついに秀吉の前に膝を屈することになりました。一般に折り合いがよくなかったと言われることの多い両者ですが、秀吉の成政に対する処遇は多分に温情的なもので、越中召し上げの後も、九州征伐において成政が功を上げると、肥後への国替えを命じています。
 当時の肥後は、国内に割拠する国人領主の間に自主独立の気風が強く、これを纏め上げることは困難を伴う事業であったことは確かです。結果的に成政は、拙速とも言える政策により国人の反乱を招き、その失政の責めを負う形で切腹を命じられました。成政の処断を思い立った秀吉が、その口実を作るため、舵取りの難しい肥後を与えたとする見方も根強い反面、朝鮮役を視野に入れた際、その前線基地となる九州は速やかに秀吉の影響下に組み入れられるべき土地であり、事実成政以後は子飼いとも言える加藤清正・小西行長らに肥後の領国経営を任せていることから、当初は成政の手腕に信頼を寄せて、この厄介な国の経営を任せたものとも言われています。
 真相は未だに定かではありませんが、田中城はその肥後国人一揆の舞台となった城の中でも、著名な一つとして知られています。

■国指定史跡となるも

 さて、肥後国人の一揆は文字通り国を挙げての騒乱となり、ついには成政単独での平定が不可能なほどの事態に陥ります。そのため、最終的には秀吉の命を受けた近隣諸大名の軍勢が肥後に進軍し、一揆を平らげて行くことになりました。田中城も小早川秀包や安国寺恵瓊、鍋島直茂、立花宗茂の攻囲を受けていますが、千に満たない守兵で四十日近くを持ちこたえています。
 この城は和仁氏の居城で、築城も和仁氏によるものと推定されていますが、その築かれた年代は定かになっていません。平山城ないしは山城に分類される構えの城ですが、小高い丘となっているだけに、今でも近くまで行けば一目でそれと分かる城山の地形を留めています。特に、舌状地形の尾根筋を断ち切る空堀は、遠目にも明らかで、この城跡の白眉と言えるでしょう。他、往時の縄張りの名残を良く残しており、国人級の城としては、かなり重武装しているように見受けられます。
 城跡は、国指定史跡となっており、一昔前には大々的に整備もされた様子ですが、城のある和水町にそれを維持していく体力がないためか、そこかしこに荒廃した雰囲気が認められます。並みの山城なら多少荒れていても気にならないところですが、田中城に限っては、史跡としての整備がかえって仇になっているのかもしれず、捨て曲輪跡の如きは、かつては存在していたであろう見学順路すら判然としなくない状態で、捨て曲輪の名前が皮肉でもあります。観光資源として迫力不足な史跡の整備予算はつきにくいご時勢なのかもしれません。

(2013年10月17日 初掲)















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