北関東の雄・佐竹氏累代の居城。
常陸太田城
所在地
別名
茨城県常陸太田市中城町
:舞鶴城
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■戦国佐竹氏の戦い

 北関東に勢力を張った佐竹氏は、自称源平藤橘の末裔が多い戦国大名の中にあっては、明確に源氏の流れと言える数少ない名族の一つです。有名な八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光の時から頼朝系の流れと分かれているため、鎌倉幕府時代には傍流の扱いに甘んじ、室町時代に入っても振るいませんでした。その点では、戦国大名として決して恵まれたスタート地点にいたわけではありませんでしたが、15代義舜の時に常陸北部をまとめ上げて戦国大名化を果たし、18代義重の時にさらなる躍進を遂げたと言われます。とは言え、常陸でも南部には小田原北条氏の影響力が浸透し、義重の領土拡大戦略は、むしろ小豪族の多かった北の奥州を志向することになりました。そして人取橋では伊達政宗との対決に臨んでいます。
 佐竹氏は常陸国への土着後ほどなくして以来、長らく常陸太田の地にあり、城の歴史はそのまま中世佐竹氏の歴史であったと言って良いのでしょう。しかし、おそらくは佐竹氏の悲願であっただろう常陸統一は豊臣秀吉による小田原征伐後、宇都宮仕置によって成りました。厳密には常陸の一部に他氏の領地も残存する形にはなりましたが、常陸南部の多くが佐竹氏の領国に組み入れられたことから、常陸国内では北偏の土地だった太田城を出て、水戸城に移りました。城自体はこの段になっても温存されていたものと思われます。
 佐竹氏は関ヶ原の戦いにおいて中立というより日和見に近い素振りを見せたことから家康の不信を買い、戦後に父祖伝来の土地から引き離され秋田へと転封されています。後に常陸は水戸徳川家の治めるところとなります。太田城自体は元和の一国一城令の際に廃されましたが、城の跡地は水戸藩家老の屋敷となり、居住区の機能自体は残されたということです。

■消えた遺構

 茨城県の県庁所在地・水戸市北方に位置する常陸太田市は、関東の北端部に位置し、牧歌的な雰囲気を残す街ですが、市街化の進んだ常陸太田駅北方の台地が太田城の故地に当たります。運悪くと言うのか、城跡周辺はすでに開発し尽くされており、城の主だったところは太田小学校になっています。遺構らしきものを見つけるのも難しく、現在は校内に石碑が立っているのみです。が、昨今の社会情勢下にあって、よこしまな気持ちはなくとも、小学校の中に入っていくのは穏やかではないところがあり、碑の見学さえも少々敷居の高い感じ。
 もともと関東七名城の一つに数えられるだけあって城自体はかなり規模が大きかったようで、近場の高台上に出城が築かれていたりもしたようです。周辺の台地は南に向かって下っているため、北条氏の勢力に対しては防備上の優位を発揮できたのかもしれません。

(2015年03月30日 初掲)















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