飛騨の覇者・三木氏の山上城郭。
飛騨松倉城
所在地
別名
岐阜県高山市上岡本町
:なし
築城者
築城年
:三木自綱
:永禄年間(1558〜1570)


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■飛騨の覇者

 高山盆地を見下ろす松倉山(標高856.7m、比高360m。現地解説板より)の上に築かれた松倉城は、永禄年間から天正7年(1579)にかけて、この地を治めていた三木自綱(これつな)により築かれたお城です。三木氏はもともとは飛騨守護京極氏の代官の一人だったようですが、私闘による領地切り取りで勢力を拡大し、自綱の代になって益田郡から高山周辺に侵入するに至ります。天正10年には、北の神岡地方を治めていた江馬(えま)氏を破って白川郷を除く飛騨の掌握を完了しています。この頃になると自綱は、姉小路氏を自称するようになりました。姉小路氏は、古くに飛騨の守護職を勤めた家でしたが、実力本位の戦国乱世の時流に乗れず、京極氏以前に滅亡していました。自綱の行為は一種の僭称のようなもので、自分の飛騨支配を正当化する目的から行われたものだと思われます。
 一方その頃、幾重もの山々に取り囲まれた飛騨国の外界では、一度は織田信長の下に収束するかに見えた戦国の世が、再び動乱の最中に帰ろうとしていました。本能寺の変が勃発したためです。謀反の首謀者明智光秀は羽柴秀吉によって討たれましたが、信長の後継者問題をめぐって秀吉と織田氏中筆頭の重臣であった柴田勝家と軋轢が表面化し、その争いの行方が各地の大名の動静にまで影響する事態に発展しました。
 

■覇者の矜持

 自綱は勝家陣営で最後まで秀吉に抵抗し続けた佐々成政に通じていため、秀吉配下の武将・金森長近による征伐を受け、松倉城他にこもってこれに抗戦するも、武運つたなく滅亡の憂き目を見ました。三木氏(姉小路氏)の滅亡以後、松倉城は廃城となったようです。城に求められる役割が戦時の拠点から、統治の拠点へと移り変わり、山城が時代遅れになりつつあったことも背景としています。もちろんそれは、松倉城の山城としての機構が時代遅れであったことを意味するものではありません。
 廃れる時は一気に廃れたのが逆に幸いしたのか、松倉城址の遺構の状態は思いのほか良好と言って良いでしょう。城跡のある松倉山の尾根筋近く、松倉シンボル広場から本丸方向に歩いていると、堀切(空堀)という立て看板がいくつか目に付きます。そこそこの数の城跡を巡った自負がある私が見てもそれらしい遺構には見えず、先行きに不安を感じそうになったりもしましたが、基本的な縄張りや、それなりの規模を備えた石垣など、名前がさほど売れていないわりに見応えのあるお城です。春先の時期の訪問で、日陰にはまだ雪が残っていたりもしましたが、三木氏はここ松倉城を夏城とし、桜洞城を冬城としていたようです。
 本丸からの展望は、特筆に価します。
 

■高山観光のコースに

 本丸跡に立ってみると、まさに屏風のような北アルプス(飛騨山脈)の山々が前方彼方にそそり立っているのが見えます。視線を少し、自分の足元の方に持っていくと、山々に囲まれた箱庭のような高山の街の姿が見えます。三木自綱のまなざしは、北アルプスを始めとする飛騨の山並みの外の世界に向けられていたのでしょうか。それとも眼下に広がる高山盆地に向けられていたのでしょうか。まあ、それは本人にしか分かりません。
 しかし、これだけの展望スポットを高山観光の選択肢の一つにせずに放っておく手もないと思います。手前の高山の市街地には、たくさんの人で賑わう上三之町あたりの「古い町並み」をはじめ、多くの観光地があります。また、屏風・北アルプスの雄大な風景の向こうには、百を超える温泉が存在するという奥飛騨温泉郷があります。高山にやってきた旅人が、自分の来し方行く末を見つめるには最適の場所です。松倉城址は、これまた観光地として名高い飛騨民俗村の裏山にあります。
 お城と城主に関するエピソードについてはあまり知らないので、観光案内で代用してみました。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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