北の国に築かれた西洋式の城。
五稜郭
所在地
別名
北海道函館市五稜郭町
:柳野城、亀田堡
築城者
築城年
:江戸幕府
:文久4年/元治元年(1864)


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■西洋式築城

 厳密に言うと五稜郭とは五芒の星の形をした城全般を意味する名称で、日本国内に限ってみても、長野県にある龍岡城跡も五稜郭の遺構なのですが、一般にはやはり、函館にあるそれのことを指し示します。日本にほとんど類似の城が無いことから分かるように、稜堡式城郭と呼ばれるこの形態の城は、日本国内で時間をかけて発達していったものではなく、中世ヨーロッパで考案された築城様式を輸入したものでした。
 幕府が軍学者武田斐三郎(あやさぶろう)の設計でこの城を築いたのは元治元年(1864)のこと。幕末のこの頃になると、国内外の情勢は何かにつけてきな臭いものになっており、幕府としても蝦夷地の守りを担う城の必要性を感じていたのでした。
 同時期には日本のそれに比べて遥かに発達した西洋式の軍備が日本に持ち込まれましたが、それらの運用される日本の城が、攻めるにせよ守るにせよ銃砲火気の類に対応していないのも明らかとなっていました。そのため幕府は、ヨーロッパ諸国が行っていた近代戦の勃発を睨んで、築城術に関しても西洋のやり方を取り入れたのでした。近い時期、近い場所に築かれた松前城が最後の日本式築城であったのとは対称的でしょう。

■箱館戦争

 しかし冒頭で「中世ヨーロッパで考案された」と説明したとおり、稜堡式城郭の源流であったヨーロッパでは、この種の城はすでに時代遅れのものとなりつつました。また、西洋式築城とは言っても主に縄張りの部分に関して西洋の様式を取り入れたに過ぎず、さらに資金難もたたって五稜郭の整備状況は完全なものではないなど、果たして五稜郭の形態にどれほどの実効性があったのかは定かではありません。
 ともかくも幕府により築かれた五稜郭でしたが、皮肉なことに幕府方がこの城を活用したのは大政奉還が成立し、明治新政府が成立した後の事でした。明治新政府の発足後、一度は函館府知事清水谷公孝が入城したものの、旧幕臣による蝦夷地の開拓・防備を大義として、多くの旧幕臣と軍艦八隻を率いて幕府海軍副総裁榎本武揚が来訪すると、城は放棄され、結果旧幕府軍に奪還される形となりました。やがて旧幕府軍はいわゆる箱館政権を樹立し、新政府との対立は抜き差しなら無いものとなっていきます。旧幕府軍と新政府軍による、函館近隣を戦場にした一連の戦いが箱館戦争ですが、五稜郭の主だった建物は、その終盤において旧幕府軍の手によって焼き払われました。西洋式城郭の中に砲撃の標的とされやすい背の高い建物を築いたことが五稜郭の弱点であったと言うのは現在では定説となっているようです。

■五稜郭タワーへ

 函館観光における一つの定番となっている五稜郭ですが、地上にいる限りではそれほど印象に残る史跡ではありません。水堀はあるものの、一見して受ける印象が近世城郭とはずいぶん違うため、いかにも城跡という雰囲気には欠けています。独特の星型を実感するには、城跡に隣接する五稜郭タワーに上るのが良いでしょう。基本的には星型をしている五稜郭ですが、伝統的な日本の城郭で言う馬出しに相当する、半月堡が一部に限って築かれていることなどが分かります。
 訪問した2009年3月時点では、旧来この城跡にあった博物館が閉鎖され、代わって箱館奉行所が復元が進められつつある過渡期状態にあったため、箱館戦争に関する情報を集めるのにもっとも有益なのが五稜郭タワーという状態でした。今後しばらくこの状態が続くようです。やはり新撰組の人気は高いのか、土方歳三に関する展示が目を引きます。
 なお、五稜郭タワーは大都市部の超高層ビルほどの高さは無いため、城の全体像を航空写真のような一枚の写真に収めるのは難しいところです。このページで使っている写真も、少し加工を施した状態になっています。細工なしで俯瞰写真を撮ろうとすると、実際にはもう少し扁平に写るはずです。

(2009年04月19日 初掲)





















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