天下布武を志した信長の出世城。
岐阜城
所在地
別名
岐阜県岐阜市天守閣
:稲葉山城
築城者
築城年
:二階堂行政
:正治3年/建仁元年(1201)


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■岐阜城の因縁

 岐阜城はもともと、鎌倉時代にこの山(金華山)の山頂に建設された城砦でしたが、その後美濃国主の居城となりました。美濃は交通の要衝に位置し、乱世の梟雄・斎藤道三は、美濃を治める者が天下を治めると、かつての君主である土岐氏から下克上によりこの城を奪っています。
 その後、織田信長が道三の孫である斎藤龍興からこの城を奪い、岐山に起って天下を望む、と中国の故事に従って、名をそれまでの稲葉山城から改名しました。後に安土城が建設されるまで10年ほどの間、信長はここ岐阜城を拠点として天下統一に邁進していきます。
 道三や信長のように、この城を居城にした武将の中には、確かにその後大きく雄飛していった者もいます。しかしそれ以上に、彼らも含め、岐阜城(稲葉山城)主達の中には、最期は非業の死を迎えた人物が多いのも事実です。どういうわけか岐阜城は、そんな世の中の移ろいを思わせる業のようなものを負っているようです。
 関ケ原の合戦に際し、信長の孫に当たる織田秀信が岐阜城に籠城し、東軍に下ったのを最後に、この城は廃城となりました。
 

■半兵衛の智謀

 天守のある山頂付近には、さほど広い平地はありません。現在では猫の額ほどの土地にいろいろな施設が建っていますが、戦国期も、建物の内容こそ違え、大きな建物は建てられなかったことでしょう。どうやら、この山のあちこちに拠点防御用の建物を配し、それをもって一つの城郭と成していたようです。
 もちろん、このような山城では日常生活には不便でしょうから、平時から多くの人間が詰めていたとも思えません。わずか六人(あるいは十六人)でこの山城を掌握したという竹中半兵衛の超人的なエピソードも、この山の実情を見るに、俄かに現実味を帯びてきます。
 もっとも、いかな堅城と言えど、十指にも満たない人数で、本腰を入れた主君斎藤氏の正規軍を相手にすることなど出来ようはずがありません。機を見誤らず、鮮烈な印象だけを残して早々に身を引いた半兵衛の引き際もまた、彼の神算鬼謀と同様に、見事だったのではないかと思います。
 

■楽して攻城

 岐阜城には、ロープウェイで登ることが出来ます。もちろん徒歩でも登れますが、見たところ、金華山の斜面はかなり急峻なようでした。山城の立地としては申し分ない地形といえるでしょう。金華山の高さは300mを越えるらしく、ふもとからでは、城の姿はほんの小さくしか見ることが出来ません。この城を力押しに攻めるのは、確かに骨が折れそうです。
 岐阜城は現在、天守(現存・再建不問)のあるお城の中では、日本一高いところにあるお城だそうです。展望が良く、しかも夜でも開かれているため、地元ではデートコースの定番にもなっています。特に岐阜城の高みから見渡す濃尾平野の夜景には、高層ビルの上から眺めるそれとは違った独特の味わいがあるそうです。
 

(2008年03月01日 初掲)















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