賤ケ岳の戦いにおける陣城。
玄蕃尾城
所在地
別名
福井県敦賀市刀根
:なし
築城者
築城年
:佐久間盛政
:天正10年(1582)頃


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■柴田勝家が陣取った城

 玄蕃尾城は、賤ケ岳の戦いのときに柴田勝家が陣城として築いたものですが、隠れなき山城と言って良いでしょう。もともとなだらかな山だったのか、かなり大規模に土木工事を施したのかはわかりませんが、一つの山の山頂付近にかなり広い平坦地が現存しており、ここに土塁や空堀など、城郭の痕跡がこれでもかというほどに残されています。何を隠そうこの玄蕃尾城、続日本百名城に選出されていますが、無印百名城のとき、わりとどうでも良い城を入選させていた例が散見されていた一方で、この城をオミットしていたことに驚かされたほどです。もちろん、まったく無冠の城ではなく、わりと早くから国の指定史跡となっていたので、そこから遺構の残存状態は推して知るべしだったのですが。

■戦国山城の遺構

 一応、主だった曲輪としては三つの虎口廓と主郭を残し、それ以外の腰郭や張出廓も残存しています。これだけだと階段状に平地が配されたものということで終わってしまいそうですが、それぞれの曲輪の周囲は土塁によって囲われ、さらにそれぞれが空堀によって遮断されているという念の入りようのため、明らかにここが軍事施設であったとわかるような状態となっています。
 一部、「櫓台」の表記とともに括弧して「天守台」と表示された微高地がありますが、さすがに天守のあるような城ではなかったと思われます。ただ、物見櫓程度は当然に設置されていたことでしょう。

■玄蕃

 羽柴秀吉の勝利と言う結果が世に知られる賤ケ岳の戦いも、緒戦の戦況は膠着していました。むしろ、柴田軍の佐久間盛政が挙げた戦果が目立ちましたが、ほどほどのところで満足して敵の懐に深入りしないようにという勝家の下知は盛政に届かず、独走が祟って盛政は敵中に孤立することになりました。勝家が心を砕いた布陣はここから破綻し、羽柴軍の攻勢を支え切ることができなくなったと見た勝家は、居城北ノ庄城に退却し、そこで自刃の最期を迎えました。
 玄蕃とは、盛政の通称です。玄蕃尾という地名は古いものではなく、おそらく賤ケ岳の戦いで良くも悪くも目立った「鬼玄蕃」佐久間盛政に由来する通称のようなものと思われます。「玄蕃の尾根」というほどの意味なのではないでしょうか。ただ、秀吉と勝家の勢力の接する領域となっていたこの周辺には、両軍が陣取った大小の城砦跡が点在しており、その中でももっとも主要な一つと思われるこの場所に玄蕃の名が着いた理由は定かではありません。合戦中に当の盛政が陣取ったのはより南の、つまり近江に近い行市山であったと伝えられています。

(2018年12月05日 初掲)















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