梟雄尼子経久の城。
月山富田城
所在地
別名
島根県安来市広瀬町富田
:なし
築城者
築城年
:平景清?
:保元年間(1156〜1159)


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■下克上の男

 下が上に克つ、すなはち下克上の戦国時代を代表する人物に、北条早雲、斎藤道三、そして尼子経久がいます。経久はここ月山富田城の主となった人物であり、一時は中国地方に一大版図を築き上げた尼子氏の礎を築いたことで知られています。
 富田城の歴史は古く、半ば伝説的な話によれば、最初この地に城を築いたのは平景清だと言われています。時は保元平治の乱と同じ頃だったとされており、後に出雲守護職の佐々木義清が入城、さらにその後は山名氏や京極氏の支配下に置かれました。その京極氏時代、京極の一門であり守護代の職に就いていた尼子氏が富田城に入城しました。そうした中で現れたのが経久だったのですが、時はあたかも応仁の乱直後。幕府の権威が失墜し、実力次第で臣下の身分であっても栄達は思いのままと言う風潮にいち早く乗ったか、経久は主家をないがしろにしてその領地を横領するという行動に出ています。これが災いし、地位も領地も失って出雲から追放される憂き目に遭いました。経久の後任には塩冶掃部介が就きました。
 しかし経久の野望は尽きず、城を追われて3年目の文明18年(1486)にはついに塩冶氏を討って富田城の奪還に成功しました。余勢をかった経久は出雲の統一にも成功し、ここを足がかりに戦国大名として中国地方諸国へと侵略の手を伸ばしていきます。富田城はこの時期に、経久によって大きく改修されたと考えられています。
 

■経久以後〜廃城まで

 着々と版図を広げていった経久ですが、84歳と言う長寿を保ったその存命中に、後の尼子氏の衰退につながる出来事は起こり始めていました。永正15年(1518)の磨石城攻めで、知勇兼備の将として知られていた息子・政久が討ち死に。年老いた経久は政久の子・晴久を自身の後継者に指名するものの、晴久が総大将として赴いた毛利攻め(郡山合戦)はまさかの敗北。そしてその翌年の天文10年(1541)、経久はこの世を去ります。
 それまで尼子氏に従属して命脈を保っていた毛利氏が、尼子のくびきから逃れて大内氏に付き、かえって尼子の大軍を退けたことは、両者の立場の逆転を暗示するかのような出来事でした。「11ヵ国の太守」の後継者として気を吐く晴久も、祖父経久と並び称される謀将・毛利元就によって翻弄された感はあり、晴久の子・義久の代に至って尼子氏は毛利氏により富田城を追われることになりました。時に永禄9年(1566)のことでした。一門の尼子勝久が山中幸盛らに擁立され、かつての経久さながらに再起の機会をうかがった故事は良く知られるものの、尼子氏が大名の座に返り咲くことはありませんでした。
 毛利氏時代の富田城は天野隆重に始まって、元就五男・元秋、八男・末次、次男・吉川元春、その長男・広家と、毛利宗家に近い一門武将を中心に支配され、毛利氏にとっても富田城が重要拠点であったことがうかがわれます。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを経て、城は堀尾吉晴のものとなりましたが、城地が太平の時代にそぐわなくなっていたため、吉晴の子・忠晴の代の慶長16年(1611)に松江城が築かれ、富田城は廃城となりました。
 

■広大な城跡

 富田城はかなり規模の大きな山城で、山麓部分には「山中御殿」と呼ばれる規模の大きな郭がありました。現在はその広さを生かした広場となっていますが、往時は菅谷口、塩谷口、大手口という富田城内主要通路の結束点でした。城をめぐる攻防戦と言う事で考えれば、ここが富田城の最重要拠点と言うことになるのでしょうか。ちなみに「山中御殿」の呼び名は尼子氏在城期間に由来する歴史の古いものではなく、主家よりも有名になった山中鹿之助の名を借りた後世の通称のようです。
 山中御殿の奥には標高189mの山頂部へと通じる道があり、この道によって山麓部の郭と、本丸・二の丸・三の丸が結ばれています。山頂部と山麓部の間にはやや距離があり、戦時において二つのブロックが相補的に機能していたと言うより、大まかに言ってしまえばそれぞれが独立して機能する二段構えの縄張りとなっているようにも見受けられます。あるいは山中御殿までが平時の生活場所で、本丸周辺が詰の城とも見られるでしょうか。山頂部は、郭ごとに高低差があり、堀切や石垣によって隔てられているものの、大規模な削平工事の跡が見て取れる広めの郭が配置されています。
 総じて富田城の広大な城址には、尼子氏系、毛利氏系、そして織豊系という系統の異なる築城技術や築城思想、さらにそれらの経年による進歩が共存していることは想像に難くなく、鑑識眼が備わっていればモザイクのような城の遺構を探検して回るのも面白いかもしれません。
 尼子氏との縁が濃い城であるだけに、城下には経久以下尼子氏一門の墓や菩提寺があり、飯梨川沿いに経久像、城内に幸盛像があります。また松江藩の開祖となった堀尾吉晴の墓も、意外なことに松江市内ではなくここ富田城下巌倉寺にあります。時間があればそれぞれ足を伸ばしてみるのも良いでしょう。
 写真は上から、尼子経久像、山中幸盛像、堀尾吉晴の墓です。
 

(2008年03月01日 初掲)









































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