難攻不落の城と、武田・徳川戦史。
二俣城
所在地
別名
静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
:蜷原城
築城者
築城年
:今川氏
:16世紀


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■意外にハイテク?

 天竜市にあった二俣城は、もともと今川氏の属城でした。築城年について、はっきりしたことはわかっていません。このお城は遠江(静岡県西部)と信濃(長野県)を結ぶ秋葉街道沿い、信遠国境につながる山間の道を抜けて浜松平野に出る交通の要衝に位置していました。高台の上、天竜川と二俣川を堀のようににして建つ要害堅固の要塞でもありました。高台の頂は、周囲の土地に対して、比高90mほどの高さになるようです。
 現在の二俣城址にはあまり多くの遺構は残されていませんが、この種の山城跡にしては珍しく、訪問者をセンサーで関知し、自動的に城についての解説をする設備が備えられています。もちろん、このアナウンスは無料です。なお、攻城時の逸話で有名な井戸櫓は、近くの清瀧寺に復元されています。
 

■武田・徳川戦史

 このお城は、永禄11(1568)年に徳川氏の治めるところとなると、北の信濃を領有する武田氏の脅威に対する備えのため、北遠の最前線基地となるべくさらなる要塞化が進められます。ここを抜かれると、徳川家康の本城・浜松城は、北からの攻撃に対する防御力が著しく低下するため、徳川家の絶対防衛ラインと位置付けられていたようです。その絶対防衛ラインが破られたのは、元亀3(1572)年にあった武田信玄の遠江侵攻の時でした。武田勝頼を主将とする攻城軍は、この城が力攻めでは落ちない堅城であることを知ると、篭城兵が天竜川から城内に水をくみ上げるのに利用していた櫓を、筏を使って破壊し、城内の士気をくじくことで落城させています。ほぼ時を同じくして、家康は三方ヶ原で信玄と戦って生涯最大の敗北を喫しており、この時は文字通りの絶体絶命だったと言えます。
 やがて、長篠の戦いを経て武田氏が弱体化すると、家康は勝頼からこの城を奪還するのに成功しています。その後、家康が関東へと転封されるに至って、廃城となりました。
 

■家康の痛恨

 一度は死地に追い込まれながら、辛くも二俣城を奪い返した家康でしたが、彼にとって最大の痛恨は、この後にこそ待ち構えていたのかもしれません。天正7(1579)年、舅にあたる織田信長から、「勝頼と内通している」との嫌疑をかけられた家康嫡男・信康が、この城で切腹して果てています。
 後年、関が原の戦いの折、三男・秀忠が真田氏の上田城攻めに時間を取られて戦場に遅参した時、家康は秀忠を叱責するとともに、「あの倅が健在であったなら」と嘆息したと伝えられています。信康は家康も目をかけていたほどの器量人であったらしく、この他にも自分の息子の待遇に不満を覚えた家臣・酒井忠次が家康に抗議をした時、「お前でも子供はかわいいか」と応じたと伝えられています。忠次には、信康にかけられた嫌疑を晴らすために信長の下に出頭したと言う過去がありましたが、このとき信長の詰問十二か条のうち、ただ二条を否定しただけであったと伝えられ、そのことを家康が恨みに思っていた、というエピソードです。
 徳川対武田の戦いは、長期化したがゆえ双方に多くの痛みと犠牲を伴うものとなりましたが、信康の死はその中でも最大の悲劇だったのかもしれません。なお、信康自刃と同時期に、家康の正室にして信康の生母である築山殿も、同様の嫌疑から処刑されています。
 

(2008年03月01日 初掲)















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