洛外の城。
伏見城
所在地
別名
京都府京都市伏見区桃山町古城山
:木幡山城
築城者
築城年
:豊臣秀吉
:天正20年/文禄元年(1592)


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■指月伏見城と木幡山伏見城

 史上、伏見城と呼ばれるものが最初に建設されたのは文禄元年(1592)のことです。もとは宇治川べりの指月(しげつ)の岡と呼ばれる地域、観月橋の東北、現在の伏見桃山陵の南西あたりに、豊臣秀吉の隠居城となるべく築かれたもので、隠居城らしく秀吉が風雅な余生を過ごすことに重きを置き、先年に築かれながら廃城とされた聚楽第の部材を用いて建設されました。その2年後の文禄3年には朝鮮役の講和使節を迎えるため大掛かりな改修工事が開始されましたが、慶長元年(1596)に近畿地方を襲った大地震により倒壊、より地盤の強固な木幡山に城地を移して再建の途に着きました。こちらが、現在「伏見城跡」などと言う時の伏見城です。指月伏見城が政治の表舞台として利用される予定だったのと同じように、木幡山伏見城も京における豊臣氏の執政所として、必然的に重視されるようになります。
 慶長3年(1598)に秀吉がこの世を去ると、以後は徳川家康が伏見城に入って政治の舵取りを行うようになります。この状況に危機感を抱いたのが石田三成でした。三成と家康が激突した関ヶ原の戦いでは、美濃国で行われた決戦に先立って伏見城が三成の西軍の猛攻にさらされ、落城しています。城には三成の挙兵を予期して、家康の天下取りのため捨石となる覚悟の鳥居元忠以下千数百名が篭っていましたが、主だった者は自刃して果てました。

■再再建から廃城

 しかし伏見城の役割はそこまでで終わってしまったわけではありませんでした。今度は徳川幕府も京における活動の拠点を求めるようになり、家康は三度伏見城を築くことになります。実際、江戸幕府の初代から三代までの将軍宣下式は再建なった伏見城で行われており、朝廷との折衝などの必要に迫られて建設されたことが分かります。さらに家康に関しては、将軍在任期間のほとんどを伏見城で過ごしています。
 伏見城は朝廷に向けた江戸幕府の窓口であると同時に、大坂で存続している豊臣氏を牽制するための城としての意味合いも持っていました。それどころか、豊臣と事を構える時が来たれば徳川方の前線基地となるはずの城でもありましたが、豊臣氏が元和元年(1615)に滅亡すると、敵方に対する押さえの城としての意義を失い、元和の一国一城令が発布されたこともあって、セレモニー会場としての役割を二条城に譲りながら寛永2年(1625)に廃城となりました。伏見城が歴史的出来事の舞台となった最後は、元和9年(1623)の徳川三代将軍家光の宣下式でした。
 なお、昭和の時代に四度築かれたいわゆる伏見桃山城は、遊園地キャッスルランドの施設の一部で、それなりに見栄えはしますが日本各地にある復元天守などとは毛色の違う建物です。それとなくオリジナルに近づけようとはしたらしいものの、かつての伏見城を再現しようと建造されたものではありません。現在遊園地は閉園しましたが、模擬天守は保存されています。城の中に入ることはできません。

■伏見城の遺材

 中に入ることができないと言えば、伏見城跡一帯は現在明治天皇陵として宮内庁の管理地となっているため、縄張り跡の多くは平時立ち入り禁止となっています。テーマパークのシンボルのような伏見桃山城だけを見てもかつての伏見城の姿を想像しにくいのが寂しいところですが、伏見桃山陵地内の参道沿いには御陵内の整備工事時に発見された伏見城の石垣と思しき石材が陳列されています。
 伏見城の遺物とされる物はむしろ伏見城外に多く現存しており、近いところでは城址南西に位置する御香宮神社の表門は伏見城の大手門を移築したものだと伝えられています。この他、福山城の伏見櫓のように伏見城から他の城に移築されたものとされる部材も各地に存在しますが、多くは確かな裏づけのない伝承のみに拠るものだというのが実情です。
 少し変わったところでは、京都市内の寺院には伏見城の血天井と呼ばれるものが伝わっている所も多くあります。関ヶ原前夜に伏見城で自害した鳥居元忠らの亡骸は落城後もしばらく城内に残されていたため、血だまりの跡や血の海に倒れ伏した将兵の顔などが床板にこびりついて取れなくなり、それがあまりに畏れ多いので各所のお寺で天井として使い、供養しているものです。有名なところでは三十三間堂隣の養源院や「悟りの窓」「迷いの窓」で知られる源光庵などに伝わっています。

(2008年04月19日 初掲)





















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