小早川宗家累代の山城。
高山城
所在地
別名
広島県三原市本郷町本郷
:古高山城
築城者
築城年
:小早川茂平
:元久3年/建永元年(1206)


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■小早川一族の事情

 毛利両川の一人である小早川隆景は、よく知られるように毛利元就の実子ですが、毛利氏と同じく安芸の国人であった竹原小早川氏の嫡流が断絶したことから、竹原家へ養子に入りました。同じく有力国人の養子となった吉川元春のケースが事実上の乗っ取りであったのに対し、乞われて養子に迎えられたものと伝えられています。さらに後年、小早川本家の沼田家の息女を室に迎え、小早川氏は隆景の下に統合されることとなります。この辺りの経緯については新高山城の項でも触れているので、そちらも参照してみてください。
 同時期、庶流であった竹原家の勢いは沼田家を凌駕するほどまでになっていました。新生小早川氏の居城として築かれたのが新高山城ですが、他方、それ以前に沼田小早川氏が本拠とし、沼田川の対岸に位置する高山城あるいは古高山城は竹原家によって脅かされることさえもあったと言われています。

■険阻な山城

 沼田川の左岸に位置するこの城は、しかし岩が露出し切り立った自然地形の厳しさでは新高山城とさほどの差はなく、規模も決して狭小とは言えません。むしろ、安芸国内では有力な国人領主の一画であった小早川氏に似つかわしいものであったのでしょう。古高山城の呼び名からは、戦国前期山城の特徴を呈する古い構えの城も連想されますが、部分的にであるとは言え石垣が用いられている箇所があるほか、山上に残る曲輪群は数も多く、中にはかなり規模の大きなものも含まれています。土木工事や築城術のレベルが相当のところまで進歩した時期まで存続していたことは見て取れます。新高山城築城は天文21年(1552)のことですが、高山城の方も新高山城の出城として後年まで温存されたものと思われます。強いて新高山城が求められたのは、竹原家が本城としてきた木村城に近く、さらには毛利宗家との連携も念頭に置いて川を渡ったのでしょうか。
 堀切、土塁などといった遺構も残りますが、現地ではそういった遺構についてはほとんど言及されておらず、史跡としての整備状態は残念ながら劣悪な方の部類に入ります。曲輪跡をめぐる道は、崩壊するに任せていたりするため、お世辞にも歩き易い山とは言えませんが、山城跡としては一見の価値ありです。

(2014年12月06日 初掲)

















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