国人時代の奥平氏に所縁の城。
古宮城 附亀山城
所在地
別名
愛知県新城市作手清岳
:亀山城
築城者
築城年
:武田信玄
:元亀2年(1571)頃


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■奥平氏の雄飛以前

 織田信長が三千丁の鉄砲を用いて武田軍を破った長篠の戦いは、史上に名高いものです。甲信の大名と言う印象の強い武田氏ではありますが、その最大版図の一部は三河山間部を大方制圧する所にまで達していました。そして長篠の戦いは、武田氏と徳川氏の間で揺れ動きながら、信玄の死を期とする形で徳川方に着いた奥平氏に制裁を加え、ひいては徳川氏を掣肘する目的で行われたであろう長篠城攻めに端を発するものであったと言って良いでしょう。
 長篠の戦で功を立てた奥平信昌は、家康の娘であった亀姫を正室に迎え、その子孫も幕府内でも厚く遇されるましたが、奥平氏はもともと三河の山間部・作手村一帯を勢力基盤としていた国人領主に過ぎませんでした。現在の作手付近にも、土豪時代の奥平氏に縁のある大小の城砦跡が残されています。代表的なもので、古宮城、亀山城、文殊山城、川尻城と言った所がありますが、特筆に価するものは古宮城と亀山城でしょうか。

■甲州流の古宮城

 作手地域で最大級の規模を誇るのが古宮城ですが、奥平氏の城ではなく、武田の重臣・馬場信房の縄張りによる、れっきとした武田氏系の城郭だとされています。甲州流築城術に基づいて築かれた純粋の城は、愛知県内ではここ一箇所として良いような状況のようです。
 武田氏の威勢が盛んで、かつ相対的に徳川氏・織田氏の勢力が小さかった頃、奥平氏は武田氏に従属していました。とは言え、武田領国における奥平氏の立場は「外様」に過ぎませんでした。そうした中、対徳川氏の戦略を構築する上で、街道を扼するこの地に、武田氏が築いた直轄の城が古宮城だったと推定されています。この城を中継地点とした南北線に注目すると、武節城と野田城を結ぶ戦略ラインが浮かび上がり、盆地を出て西に向かえば、岡崎城に肉薄することができます。要は東三河と西三河、それぞれの平野部に通ずる交通の要衝だったというわけです。しかし要地の城でありながら、同時代の資料には乏しいため、その沿革については詳らかでない部分も残されています。
 城跡は、作手盆地内に存在する独立丘に築かれていました。往時、城の周囲は湿地帯だったようです。現在の城跡は、一部が神社となっているほかは鬱蒼とした木立に包まれていますが、そうした中でも、幾段にもわたり、全方位に及んで削平された曲輪跡や、堀切、高い土塁などを認めることができます。城として機能していた頃に備えていたであろう物々しいまでの防御能力は、想像するに難くありません。

■奥平氏の本拠・亀山城

 亀山城は戦国期奥平氏の本拠地として機能した城で、奥平氏が徳川氏に服属して長篠城に入れられるまでの時期に及びました。それ以前に奥平氏が居城としていた川尻城は、狭小だったこともあり、その役割を亀山城に取って代わられたとされています。なお、川尻城跡は小さな公園となっており、城跡らしき物はほとんど残されていません。
 対する亀山城跡には、遺構としては土塁、堀切、曲輪跡などが残り、自治体による史跡整備の手も前述古宮城より行き届いていますが、残存遺構の規模それ自体は二、三歩譲る印象です。
 古宮城からは1kmと離れておらず、まさに指呼の距離といった所です。古宮城は、徳川氏を牽制するための城であると同時に、向背常なき辺境土豪を圧するための城でもあったのかもしれません。前述の通り、後年になると奥平氏勢力は作手盆地から退去し、武田氏による支配が優越する時期が訪れます。一説には、徳川方に通じた奥平氏が亀山城から退去する様を見咎めた古宮城の守兵が、奥平勢を追撃したというような出来事もあったと伝えられますが、真偽のほどは定かではありません。

(2014年09月12日 初掲)





















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