応仁の乱、西軍の陣城。
船岡山城
所在地
別名
京都府京都市北区紫野北舟岡町
:なし
築城者
築城年
:山名教之
:文正2年/応仁元年(1467)


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■西陣のおこり

 京都を焼け野原に変えた応仁の乱は、現在の京都御所北方を主戦場にして繰り広げられました。東軍の陣、すなはち東陣は現在これと言う痕跡も残されていませんが、地下鉄今出川駅の西側一帯がそうだったと伝えられています。対する西軍の陣営は、今もそのまま地名として残る西陣地域に展開されましたが、その中でも特に船岡山には、陣城が築かれました。船岡山に陣取るは大内政弘。直接血のつながりこそないものの、西軍の総大将である山名宗全の孫にあたり、中国地方と九州北部に大勢力を誇った西軍の主戦力でした。
 もとより京都の洛内は平坦な土地が広がっており、その中にあって船岡山はごく限られた高地だったことから戦略上の重要性を認められたものと思われます。ただ、微高地ではあっても天嶮とは言い難く、敵勢からの攻撃に対して鉄壁の守りを誇ったというわけではなさそうです。乱の勃発した応仁元年(1467)に築かれた船岡山城は、その翌年には東軍の総大将・細川勝元によって陥れられており、城としての機能はそれから間もなく失われたと考えられています。なお、半世紀ほどが経過した永正8年(1511年)には、大内義興らと細川澄元の間で船岡山合戦と呼ばれる武力衝突が起きています。澄元は船岡山に陣取って敵勢を迎え討ちましたが、やはり敵勢に追われて落ち延びています。高地に陣取るのが兵法の常道とはいえ、この出来事からも船岡山自体は屈強の陣地でなかったと言えるのかもしれません。

■憩いの史跡公園

 現在の船岡山は公園となっています。里山風の木々に覆われた高台となっていて、園路を辿ることでその頂上に至るような配置になっています。船岡山の南面には織田信長を祀る建勲神社が建立されていますが、神社の境内地を含め、この独立小丘の要所要所にある程度の広さを持つ平地があるのは、かつて陣城として使われた時の名残なのかもしれません。なお、もう少し正確な資料によれば、山のあちらこちらに、最低限の防御機構の痕跡も認められるということですが、どうもそれほど念の入ったものでもなかったようです。一部に土塁などが残されているとはいうものの、ある程度の広さがある現在の公園の中では部分的に残されているに過ぎないこれらの遺構を探すのは存外に骨の折れる作業となりそうです。
 そんな船岡山ですが、現在は国指定の史跡となっており、今後も旧情をとどめていくことになると思われます。なお、船岡山は五山送り火見物の名所としても名高く、現地で語られる通り、京都市民憩いの場としてあり続けるのでしょう。

(2017年07月07日 初掲)















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