西国鎮護の城。
福山城
所在地
別名
広島県福山市丸之内1丁目
:葦陽城など
築城者
築城年
:水野勝成
:元和8年(1622)


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■駅からも見えます

 明石城の回にも話したとおり、明治維新を迎えると日本のいたるところにあったお城はひとまずその役目を終える事になりました。跡地には、官公庁や軍の鎮台が置かれたり、鉄道駅が建設される例も少なくありませんでした。私の知る限り、新潟県の長岡城や以前にこちらで紹介した三原城などは、跡地に駅が建っています。もちろん、明石城も明石駅の目の前にありますし、今回紹介する福山城の再建天守も福山駅から目と鼻の先の距離に建っています。福山城の場合は在来線よりも新幹線の方がさらにお城を間近に見られるようです。福山駅もまた、福山城の丸の内に建てられた駅でした。
 鉄道の車窓から見える城というのは印象に残ります。日本のあちこちを旅している時、電車の窓から見えた城にはいつか行ってみたいという思いにかられる物です。私の場合、明石城と福山城が特に気になって仕方がありませんでした。どちらも、山陽道を走る主要鉄道路線の沿線にあるお城だということもありますが。
 

■福山藩の始まり

 福山城のある安芸一円は戦国時代も時を経るまでは中小の国人領主が割拠する戦国時代の縮図のような有様が続いていました。守護の武田氏(甲斐武田氏の傍流)にも単独で安芸一国を切り従える力はなく、これに代わって台頭するのが毛利氏です。毛利一族はついには中国から九州四国にまで及ぶ大版図を築き上げるに至りますが、関ヶ原の戦いで時の当主輝元が西軍の盟主として担ぎ出されてしまったため、その戦後処理で安芸の領有権を失います。後に入ったのは福島正則でしたが、その正則も広島城の修築を幕府に無断で行ったために改易され、広島城には代わって浅野長晟が入ると共に、福山の地には水野勝成が封じられました。
 勝成の父・忠重は、徳川家康の生母・於大の弟であり、つまり勝成は家康の従兄弟であり、水野家は三河時代からの譜代ということになります。勝成が来たころの中国地方には外様大名しかおらず、幕府は勝成の福山入りに際して色々の援助を与えたと伝えられています。こうして勝成は、それまでこの地方の拠点であった神辺城を出て、新たに福山城を築く事になります。
 

■福山の財産として

 福島正則が改易されたのが元和5年(1619)のこと。築城工事と城下町づくりは翌6年から開始されたと伝えられています。福山城の辺りにはもともと砦程度のものはあったと考えられているものの、それの改修工事が終了したのは元和8年。城の建造には神辺城はもちろんの事、伏見城の遺材も多く使われました。しかし作業期間中には洪水などもあり、決して簡単な工事ではなかったようです。城の完成を待って、この地は福山と呼ばれるようになりました。
 物の本によると、完成した福山城の天守閣は五層六階の複合天守で、北側の外壁は鉄板張りだったのだとか。鉄板張りの城といわれてもちょっと他に思い当たるところもないのですが、堅牢を誇った鉄の城も先の大戦による空襲には耐えられず、灰燼に帰しました。現在の福山城公園にあるのは、福山市制五十周年を記念して昭和41年(1966)に再建された復元天守です。天守閣は福山市の歴史を伝える博物館に、公園は桜の名所となり福山市民の憩いの場となっているようです。この復元天守の形は往事の福山城に良く似せて作られていますが、正面方向から見るとかなりどっしりとした男性的なフォルムを描いています。現在まで伝わる伏見櫓・筋金御門は、重要文化財に指定されています。
 なお、福山城と福山の町の礎を築いた水野氏は五代にして断絶。その後には松平氏や阿部氏が入りました。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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