黒田五十二万石の居城。
福岡城
所在地
別名
福岡県福岡市中央区城内
:舞鶴城
築城者
築城年
:黒田孝高
:慶長12年(1607)


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■黒田家の関ヶ原

 もともと播磨の住人であった小寺官兵衛孝高(のちの黒田如水)は、当時織田信長の旗下で中国地方の攻略に当たっていた羽柴秀吉に付き従い、その軍師として名を上げていきます。孝高の智謀に対する秀吉の信頼は厚かったようですが、同時に秀吉はその底知れない知恵の泉に対して恐れを抱いてもいたようです。後年秀吉が天下人になると、年来の家臣たちはみな日本各地に多くの知行を与えられるようになりますが、孝高に与えられたのは、彼のこれまでの働きに比すれば不当に小禄であると言わざるを得ない豊前中津十二万五千石でした。孝高の謀反を恐れた秀吉が、これを実行に移すだけの実力を与えなかったのだという逸話はとみに有名です。
 皮肉なことに、黒田家雄飛のチャンスは秀吉の死後にやってきます。慶長5年(1600)に勃発した関ヶ原の戦いがそれです。もっとも、この戦いに臨む孝高とその後継者・長政の意気込みには少なからずの隔たりがあったようで、長政は徳川家康に付き従って抜群の功績を挙げ、「さすがは如水の子」という賞賛を得たにもかかわらず、当の孝高は息子を叱責したと伝えられています。曰く「お前が戦を早々と終わらせさえしなければ、自分は実力で九州を切り従えて中央に上り、家康と雌雄を決していただろう」。才気あふれる親子鷹も、その野心家としてのスケールは父のほうがはるかに勝っていたというエピソードですが、筋が整いすぎていて作り話の感は拭えません。

■筑前移封

 とは言え、長政が家康の配下となって目覚しい武功を上げたのは動かしがたい事実であり、合戦後の論功行賞において黒田家は一躍筑前福岡五十二万三千石の太守にのし上がります。領内には海外との交易によっても栄えた博多の町を有し、己の野心と実力を存分に発揮する機会を失った気分でいたであろう孝高を除けば、誰もがうらやむような行賞に預かったと言えるでしょう。
 当初はもともと領内に存在していた名島城に入城したものの、大藩を営むための拠点としては城そのものも城下町も手狭であったため、博多の街と接するあたりに位置する福崎で五十二万石の主の住処となるにふさわしい城の造営が開始されました。時に慶長6年(1601)のことでしたが、九州最大規模と言われた福岡城は6年のうちに完成を見ました。その構造は、朝鮮の晋州城を模したものだったとも言われていますが、城の規模、そして築城の名手・加藤清正をして驚嘆させたというその美麗な造りは、九州の雄・黒田藩にまったく似つかわしいものだったと思われます。
 なお、その名城ぶりを同時代の人から賞賛された新城も、天守台こそあれど天守閣が築かれることはついにありませんでした。かつて太閤秀吉がそうだったように、新たに天下人となった家康も孝高の才覚を恐れていたと言われ、孝高・長政とも処世のために天守を建造することをはばかったのだと言われています。

■福崎から福岡へ

 新たに築かれた城と「福崎」と呼ばれていた周辺の地名は、福岡という名に改められました。黒田氏が代々暮らしてきた備前国の地名にちなんだものだったようです。現在でも福岡という大都市の中に、これまた新幹線の駅としても全国にその名を知られる博多という歴史ある街が並存しているのはこうした理由です。
 以後、福岡城は黒田氏累代の居城として存続し、明示維新を迎えました。もともと城の規模が大きかったこともあり、城外に移築された建築物も含め、創建時の建物を多く残しているのが特徴で、舞鶴公園として整備された現在の城地には櫓や門が複数残されています。もちろん、前述の天守台も現存しています。公園内には幸か不幸か野球場や博物館なども建設されていますが、大都市都心部近くの城址としては、比較的良く整備されている部類に入るといって良いでしょう。

(2008年04月01日 初掲)





















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