悲運の御曹司が残した城。
福井城
所在地
別名
福井県福井市大手3丁目
:なし
築城者
築城年
:結城秀康
:慶長6年(1601)


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■徳川の次兄

 徳川家康の跡を継いで江戸幕府の二代将軍となったのは徳川秀忠ですが、彼には二人の兄がいました。比較的有名なのが、清洲同盟の負の部分を背負って斬殺された岡崎信康であり、信康と秀忠の間にいたもう一人の兄が結城秀康です。信康は家康の正室・築山殿の子でしたが、秀康・秀忠は共に妾腹の子でした。順当に行けば秀忠よりも年長の秀康が家康の跡継ぎとなるように思われるところですが、長幼の順を無視する形で秀忠が家康の跡を継いだのは、秀康が家康に嫌われていたためだと言われています。果たしてこの親子の間にどのような事情が存在していたかは、四百年後の世界の人間では見当もつきませんが、秀康がその生まれに反して苦難の多い人生を送ったらしいことは間違いなさそうです。
 福井城は、そんな結城秀康が晩年近くになってからようやく得た大封を治める府城として築かれたものでした。その規模は家康の実子にして都合七十万石を超える大藩に似つかわしい規模を誇っていたと言われており、その縄張りは家康が手ずから行ったとされています。

■父からの冷遇

 家康と秀康の親子に曰く言いがたいわだかまりが存在していたのは、単に二人のそりが合わないとかいった次元の話ではないのかもしれません。
 家康の手つきとなった秀康の実母・於万の方の身柄は、正室築山殿の目から逃れるようにして本多重次の下に預けられ、天正2年(1574)、秀康は重次の屋敷でひっそりと呱々の声を上げました。その面構えが醜いのを知った家康は、彼の幼名をナマズの一種で独特の容貌を持つギギという魚にちなんで於義伊としたと伝わります。そしてそれきり幼い於義伊には会おうともせず、数年を経てからようやく長子信康のとりなしで親子の対面を果たしたと言う有様でした。秀康がこれほど冷遇された原因は、母である於万の方に問題があり、家康は秀康が本当に自分の子であったどうかを疑っていたからだとも考えられています。生まれた直後から冷たくされていたことを考えると、やはり出生に疑惑を持たれていたのかもしれません。
 小牧・長久手の戦いで家康が羽柴秀吉と対決した時、於義伊は和睦の印として秀吉の養子に迎えられます。何事もなければそれはそれで幸福な結末を迎えていたのかもしれませんが、秀吉に実子が生まれると再び厄介払いの形で下総の大名・結城晴朝の養子となり、ここに結城秀康と言う武将が誕生しました。
 やがて迎えた関が原の戦いを経て、秀康はそれまでの結城藩に越前67万石を合わせた大大名へと躍進します。この段階で秀康は、ようやくその血筋と履歴にふさわしい地位を得たと言えますが、それから7年後の慶長12年(1607)に34歳の若さで亡くなりました。秀康の跡は嫡男である松平忠直が継ぎました。忠直が徳川の一門である松平姓に復していることからも分かるとおり、越前松平藩は御三家に次ぐ格の家として、紆余曲折を経ながらも明治維新まで福井城を本拠に存続します。

■北ノ庄から福井へ

 福井城は、かつてこの地を治めていた柴田勝家の北ノ庄城を基礎にして築かれました。城域は旧北ノ庄城を拡張し、城下町の基盤も旧城と同じくしていると言われます。実際に結城秀康入封後の段階では、城はかつてと同じ北ノ庄城の名で呼ばれていました。しかし草創期の越前松平藩では、前出の二代忠直に乱行が目立ったために幕府から隠居の上で豊後への配流を命じられ、代わって忠直の弟忠昌が入府すると言う大事が発生しています。そうした経緯もあって地名に使われている「北」の字は縁起が悪いと嫌われ、はじめて現在に続く福居の地名が生まれました。現在も天守台跡に残る「福の井」から取ったものだとか、地付きの神の名に由来しているものだとか、詳細には諸説がありますが、現在の「福井」という字が使われるようになったのは元禄期以降のことのようです。
 城は当初四層五階の天守閣を擁していましたが、城の完成から五十年ほどを経た時期に城下から発生した大火により焼失。以後天守閣が再建されることはありませんでした。現在は、かつて壮大な天守を支えた天守台が残るばかりです。城地は明治以後に国や福井県の管理地となり、現在は満々と水をたたえる堀と石垣に囲まれた内に福井県庁舎が建っています。周辺部も福井市の中心地して開発され、城郭時代をしのぶよすがは、県庁の片隅に残る天守台と再建された御廊下橋といったものばかりです。

(2008年12月21日 初掲)



























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