北丹波の近世城郭。
福知山城
所在地
別名
京都府福知山市字内記内記1丁目
:横山城、臥竜城など
築城者
築城年
:明智光秀
:天正年間(1573〜1592)


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■掻上の古城

 お城スコープの取材旅行では、諸般の事情により鉄道を使うことが多いのですが、鉄道駅や車窓から見えるお城の姿は不思議と印象に残ります。JR山陽本線の明石駅前にある明石城、同じく山陽線および山陽新幹線の福山駅前にある福山城などは、特にお城に興味のない人の記憶にも良く残るお城でしょうが、福知山城も、鳥取方面に向かう山陰線の窓からよく見えるお城です。もっとも、山陽線に比べるとどうしてもマイナーな山陰線ですから、前二城に比べると見覚えのある人の数は減ってしまうかもしれません。
 福知山城の前身は横山城と言い、塩見頼勝(小笠原頼勝)によって築かれたのが始まりだったと言われています。その時期は確定を見ていないようですが、16世紀初頭のことだったのでしょう。現在朝暉ヶ丘と呼ばれている高台の周囲に空堀をめぐらせ盛り土をした程度の簡素な城、いわゆる掻上城だったようです。塩見氏は、頼勝の子・頼氏の代に名を横山氏と改め、横山城を拠点にして勢力を拡大していきましたが、その勢力規模は地方土豪程度のもの。織田信長の命で丹波平定の任に就いた明智光秀には敵いませんでした。一方、天正7年(1579)になって横山氏を下した光秀は、ここに丹波一国平定を成し遂げたのでした。

■近世城郭福知山城

 横山城を手に入れた光秀は、その立地に注目し、城代として藤木権兵衛・明智秀満を入れるとともに、大規模な改築に着手しました。この時期、城の名も福智山城と改められましたが、これが現在の福知山城となるのは、さらに時代が下った江戸時代のことです。
 もっとも、光秀が福知山城を失うことになったのは城の完成後間もない時期だったことでしょう。と言うより、天正10年(1582)の本能寺の変を経て光秀がこの世を去ると、彼の遺領は羽柴秀吉の養子・秀勝、北政所おねの叔父・杉原家次など秀吉の一族に受け継がれ、それが途絶えると小野木重勝、重勝が関が原の戦いで西軍に与して失脚すると有馬豊氏が城主となりました。豊氏の時代に、現在見られる福知山城の姿が完成されたようです。
 その後も城主は岡部氏、稲葉氏、松平氏とめまぐるしく変わり、ようやく朽木氏が福知山代々の城主として定着ました。朽木氏の統治が十三代にわたった時に明治維新を迎え、福知山城の建物のほとんどは取り壊され、門など小規模な建造物が近隣の寺院に移築された他はわずかに銅門(あかがねもん)続櫓や石垣が残されるばかりといった有様になりました。現在見られる復元天守は、昭和61年(1986)に再建されたもので、外観は残された古絵図を元に再現され、内部は資料館となっています。

■城の現在

 福知山城は現福知山市でもかなりの街中にありますが、どうやら台地の北端部にあたるらしく、福知山駅前から続く目抜き通り側とは、結構な高低差があります。前述ルートを経て城にアクセスすると、城の観覧時にはその高低差を詰めるためにかなり傾斜のきつい坂道を一息に登らなければならないため、街中の城にしては意外に大変な思いをすることになります。
 そのようにしてたどり着く主郭部は、東側から見るともともとは本丸、二の丸、伯耆丸、内記丸と四つの曲輪が連なり、連郭式城郭の体をなしていました。現在は城内への入口の関係でいきなり本丸に出ます。
 例によって(?)、訪問のタイミングがまずかったために天守の中に入ることができませんでしたが、本丸周辺には転用石の数々が展示されています。福知山城では五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部、石仏、石臼、灯篭などが数多く石垣に用いられています。築城時に石材の調達に難儀したとか、あるいは信長の意を受けた光秀が旧勢力を否定しようとしたとか、もしくは石材から霊的な加護を得ようとしたとか、その理由はいろいろ推理されていますが、真相は不明なままです。

(2008年10月13日 初掲)





















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