金森長近が残したもう一つの城下町。
越前大野城
所在地
別名
福井県大野市城町
:亀山城
築城者
築城年
:金森長近
:天正4年(1576)


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■金森長近の軍功

 福井県大野市は、世に数多ある小京都と呼ばれる街のひとつです。ここに近世城郭大野城を築き、小京都たる城下町の礎を作り上げたのは金森長近でした。なお、古代城郭ながら福岡県の大野城もまた名高いため、それと区別する意味もあり、一個のお城としてはこの城を越前大野城と呼ぶことが多いようです。
 長近が織田信長から大野の地を与えられたのは天正3年(1575)のことでした。旧領主朝倉氏の滅亡から1年余り後の出来事でしたが、信長による越前経営も、当初はうまく行かず、暗礁に乗り上げていました。朝倉氏時代から引き続いて領地を安堵されていた朝倉旧臣系領主の仲たがいに、加賀一向一揆の坊官らが介入し、本格的な一向一揆に発展したのです。長近は、この一揆鎮定に功がありました。
 こうして大野に三万石の所領を得た長近により、大野城築城の槌が下ろされたのは、その入封翌年の天正4年のことでした。

■親藩・譜代の時代へ

 越前に所領を与えられたことから、織田氏北陸方面軍の総大将である柴田勝家の与力となった長近は、本能寺の変後はなし崩し的に羽柴秀吉と敵対関係に陥りますが、勝家の敗死後に許され、慶長16年(1588)には飛騨高山へと加増転封になります。
 以後、信長の孫に当たる秀雄の統治が行われましたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したために改易され、大野城は結城秀康の治める福井藩に属することとなりました。やがて寛永元年(1624年)、秀康の子・松平直政藩祖となり、大野藩は晴れて一つの独立した藩として立藩しました。
 その後半世紀ほどは松平氏の統治が続きましたが、その跡を土井氏が受け継ぎ、そのまま明治維新を迎えました。城は、明治になって破却されましたが、昭和43年(1968)に模擬復元され、現在も大野の町を見下ろしています。

■越前大野、その文化的土壌

 長近の手になる城としては、大野からの移封後に築いた高山城があります。むしろ長近と言えば高山藩祖としての顔がよく知られていますが、越前大野も高山も、共に小京都として知られると同時に、最終的には天領もしくは幕府と縁の深い親藩・譜代の領国として定着したと言う共通点があります。
 後者については偶然の一致ようにも思われますが、二つの城の城下町が揃って小京都となりえたのは、金森長近と言う武将の文化人としての素養が強く影響していたのかもしれません。あるいは、越前の前国主であった朝倉氏が用いた文化振興策によって一乗谷に雅やかな都風文化が花開いた歴史が、長近による領国統治にも受け継がれたのかもしれません。いや、九頭竜湖の川筋に営まれたこの盆地の町の近くには、朝倉氏よりもさらに前から平泉寺白山神社という名刹が建立されており、古くから高い文化水準が涵養されていたと考えるべきなのでしょうか。ここでは、とどのつまりはそうした流れが、金森長近という一人の文化人武将を通じて、高山の街に根付いた考えたいところです。大野城から一足伸ばして立ち寄った平泉寺は、そう思わせるだけの枯淡の空気が漂っており、こちらもまた深く印象に残っています。
 なお、城からほど近くにある洞雲寺は、一乗谷朝倉氏にゆかりのお寺です。織田信長に攻め込まれた朝倉氏の最期は、一族による謀反の末に訪れていますが、その舞台となったのもまた、大野の地でした。城下には朝倉義景の墓も残されています。

(2012年12月12日 初掲)















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