越中越後境目の城。
越中宮崎城
所在地
別名
富山県下新川郡朝日町宮崎
:境城、荒山城
築城者
築城年
:宮崎長康
:寿永2年(1183)


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■日本海岸の隘路

 越中国、現在で言う富山県の東部は、立山をはじめとする屏風のような高山帯によってそれ以東と仕切られています。いわゆる北アルプスの北端部ですが、日本アルプスは1000m級の山々を連ねたまま、新潟県西部から富山県東部付近でそのまま海中に没してしまいます。
 こうした特異な地形の代表例が、天嶮親不知です。親不知周辺は、日本海の海中から直接岩山が屹立するような険しい地形が連続しており、現在でも国道・高速道路・JR線路が岩壁に張り付くようにして走る難所となっています。実のところ高速道路の建設で潮の流れが変わり、わずかにあった海岸線が洗われてしまって現在のような地形になってしまったと言うことのようですが、昔から北陸道のボトルネックとなる箇所には違いがありませんでした。
 それは戦国時代とても例外ではなく、越中に侵攻しようとする上杉勢と、これに対抗しようとする越中勢の間に横たわる特殊な地勢が、両陣営にそれぞれの思惑を抱かせたことと思います。そして宮崎城は、越中越後の境城として、戦略上の焦点となったのでした。

■越後と越中を隔てる

 越中宮崎城は、富山県の最東部の日本海沿岸にあった山城です。狭隘な日本海岸の道を進軍してくる越後勢にとっては魚津の平野に進出するための足がかりとして、越中勢にとっては外敵を水際で食い止めるための防波堤として、ぜひとも自勢力中に留め置きたい城だったことでしょう。
 現地案内板によると、城の歴史は源平時代まで遡るようです。木曽義仲の旗頭として担ぎ出された北陸宮の御所はここ宮崎城のあった八幡山(城山)に築かれました。もっともこの御所と言うのが、城砦と言い得るほどの防御能力を備えた建造物だったのか、それとも高貴な人の御座所に過ぎない建物だったのかは、なんとも判断しかねる書き方をしています。
 いずれにせよ、城としての機能を充実させたのはやはり戦国時代のことだったようで、す。どうやら、越中国内の城でありながらも、南北朝時代から長尾氏(後年の上杉氏)の支配に属する城だったようで、北陸方面に侵攻を企てた上杉謙信も、宮崎城を足がかりにして越中国内の敵城を攻略していきました。後、北陸方面の軍事的パワーバランスの変化に伴い、佐々氏、前田氏などがこの城を領有しています。
 宮崎城は、江戸時代に入って境関所が設けられた時に、廃城となったと考えられています。

■好展望の城跡

 宮崎城の築かれた城山の標高は249m。日本海に面してそそり立つ山上に築かれているため、比高も250m近く、山城としてはそれなりに高いところに築かれていると言って良いでしょう。地図上ではJR越中宮崎駅からそれほど距離がないように見えたので、当初こそ鉄道で出かけようと考えていたものの、そうした場合、結構な距離の山歩きを強いられることになったでしょう。反面この城は、車で主郭付近まで容易にアクセスできます。そして主郭付近以外には目立った遺構も残されていないようなので、車で一気に本丸を目指しても弊害は少ないような気がします。
 宮崎城は、戦時中には電波技術研究所建設用地にされており、その時期に旧来の地形にかなり手が入ったことが考えられます。かつての曲輪が存在した尾根筋は、あまりにも平らに整形されていますが、大半は近年の工事によるものだと考えるのが妥当でしょう。現在では、多少城郭時代の名残が残っていると言った程度です。
 本丸周辺からは展望が利きます。天候が良ければ前述の親不知や富山平野を遠望でき、この城が境城であったことが良く実感できます。

(2008年11月08日 初掲)





















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