三河の有力土豪・山家三方衆の悲運の城
田峯城
所在地
別名
愛知県北設楽郡設楽町田峯
:蛇頭(じゃずが)城
築城者
築城年
:菅沼定信
:文明2年(1470)


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■三河・山家三方衆

 田峯城は文明2年(1470)に菅沼定信によって築かれた小さな山城です。菅沼氏はこの地を治める有力土豪でした。
 三河国作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、そして田峯の菅沼氏は「山家三方衆」と呼ばれ、三河の山岳地帯を三氏で分割支配していました。しかし地図上では三河国内のかなりの部分を領有するとは言っても所詮は生産性の乏しい痩地のこと。駿河・遠州から影響力を及ぼす今川氏、三河の平野部を治める松平(徳川)氏、信州伊那地方から圧迫を強める甲斐武田氏などの強国に対抗するほどの力は三氏に無く、従って強国に隷属することで家の存続を図るのが常套手段となっていました。
 三氏は姻戚関係を結び、基本的には協調して外部勢力に対向する方針を取っていましたが、時にその原則が崩れ、敵味方に分かれることもありました。天正3年(1575)に勃発した長篠の戦い前夜は、まさにそうした状態でした。この時期、長篠城には徳川方に与した奥平信昌が入っていました。もともとの城主・菅沼正貞は徳川方の攻勢に耐え切れず、信濃にまで撤退しています。
 

■長篠の戦いと田峯城

 武田勝頼は長篠城を奪還すべく軍を起こし、その結果として起きたのが長篠の戦いなのですが、周知の通りこの戦いは武田方の惨敗で終わりました。勝頼に付き従っていた時の田峯城主・菅沼定忠は敗残の勝頼を自城に招き入れようとしていましたが、城の留守を預かっていた家老の今泉道善や叔父の定直は武田方の敗北を知ると城門を固く閉ざし、勝頼および定忠を締め出すことで旧主筋に対する謀反を起こしています。ほうほうの態で逃げ出してきた勝頼主従は思わぬところで煮え湯を飲まされ、なおも苦しい逃避行を余儀なくされました。
 特に定忠は、自分の持ち城を奪われた上に勝頼に対する面目も潰され、道善らに対する憎悪の念は計り知れないものがあったようです。長篠の戦いから1年余りが経った天正4年7月14日、定忠は未明に田峯城を襲い、城に詰めていた96名の首を老若男女問わず次々に落とし惨殺しています。そして謀反派の主要人物の首は往来の多い辻に晒し、道善に至っては生け捕りにした後に鋸引きにして殺しました。一刻にも満たない短時間の出来事だったと伝えられています。定忠の復讐劇がかくも首尾よく果たされたのは、城方が「定直は勝頼に対する謝罪のために自害した」という偽情報を信じきっていたのが原因と言われていますが、これも定忠の謀略だったのですから、定忠の怨念の深さがうかがえます。
 こうして復讐を果たした定忠も、すでに徳川方の城になっている田峯城に戻ることは出来ず、武田氏の滅亡までは武田氏に付き従いました。武田氏滅亡のおりには徳川家への帰参を願いますが認められず、結局は自害して田峯菅沼氏は断絶しました。同時に田峯城も用済みの城となり、いつの頃にか廃城となったようです。
 

■戦国の世を偲ぶ

 現在の田峯城には書院造の武家屋敷が復元されています。あの「ふるさと創生資金」と設楽町の身銭を合わせた二億三千万円を投じて再建された田峯城の姿は、この城の往時の様子を伝える史料がなかったので他の城の様子を参考にしながら作られたものだそうです。
 この種の「復元」はどうも奇妙奇天烈なお城を生み出してしまうことが多いのですが、幸いなことに再建された田峯城は戦国の山城の雰囲気をよく伝える出来になっているのではないかと思います。強いて言えば山奥の小領主の屋敷にしてはちょっと立派過ぎなのではないかという気もしますが、あからさまなキワモノではありませんので有料(大人200円)ながら一見の価値はあります。
 訪問時には管理人のおじいさんの話を聞く機会に恵まれ、それが今回の記事にも生かされているのですが、おじいさんの話によると寒狭川側とは反対側に広がる田峯集落の家々は「戦国の頃から増えもせず減りもせず」とのこと。ほんの数十年前までは家の造りまでもが戦国時代と大差が無かったそうです。
 この城には物見台も再現されています。山と山に挟まれた谷筋に面して建てられた城なので視界の大半は山壁に遮られてしまいますが、はるか眼下を流れる寒狭川(豊川)とその河岸部の様子が良く見えます。四百年以上前の物見役もこの場所から敗残の勝頼主従の姿をとらえたのでしょうか。城の本丸から四囲を眺めていると、今でも甲冑に身を包んで行軍する武将の姿が見えてきそうな錯覚に陥ってしまいます。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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