「瓶割り柴田」の逸話を残す城。
長光寺城
所在地
別名
滋賀県近江八幡市長光寺町
:瓶割山城、柴田城
築城者
築城年
:佐々木政尭
:応仁2年(1468)


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■瓶割り柴田

 尾張統一の前後はいざ知らず、信長の合戦には、数にものを言わせた物量作戦が多いようです。ただし、だからと言ってそのことが信長の武将としての評価を下げることにはならないでしょう。数の多いほうが勝つ。戦いにおいては当然のことですが、言うほど簡単なことではないから、名将と呼ばれた武将たちは、戦いにおいて采配・知略の妙を競い、数の不足を補おうとしました。信長が、数の圧に任せた戦いをすることが出来たのは、彼が天下人だったからに他ならりません。
 そういう戦い方をしていたからか、織田家中には、野戦指揮官として鳴らした武将というのは多くはありませんが、その中で異彩を放っているのが、家中随一の猛将として武勇を謡われた柴田勝家です。「鬼柴田」、「かかれ柴田」など、彼の二つ名にはその勇猛を伝えるものが多いのですが、そうした中の一つに「瓶割り柴田」というのがあります。篭城中、敵に水の手を断たれた勝家は、あえて城内に残されていた水瓶を割り、城兵の士気を高めて窮地を脱したと言います。
 史実性はともかく、長光寺城はこの逸話の舞台になった城です。

■六角氏と長光寺城

 長光寺城は、応仁2年(1468)に佐々木政尭によって築かれたものと考えられています。その後の来歴には不明なところが多いのですが、観音寺城の至近距離に位置する立地から、戦国時代頃には同城を本拠とする六角氏の支城になっていたのでしょう。その六角氏は、信長が足利義昭を奉じて上洛した際には、戦闘らしい戦闘を行わず、観音寺城を捨てて信長の前から退散しています。近江南半国の大半が信長のものとなった時から、長光寺城も織田氏の勢力下に組み込まれたものと推測されています。
 前述した瓶割りのエピソードは、元亀元年(1570)における六角承禎との戦闘の時の事だったと伝えられていますが、これもすでに触れたとおり、後世の創作である可能性が捨て切れません。ともあれ、六角氏勢力は、元亀年間中には近江から事実上一掃されました。戦国大名六角氏最後の当主たる承禎は、その後も浪々の生活を営んだと伝えられますが、信長の近江支配を脅かすものとはなり得ず、安土城が築城される頃には、役割を終えた長光寺城も廃されたものと考えられています。

■史跡ハイキングコースとして

 長光寺城のあった山は、現在も瓶割山の名で呼ばれ、城跡を散策するハイキングコースも設けられています。
 遺構としてはやや地味ながら、堀切、竪堀、そして削平地形が多く残ります。古図面から引いてきたものなのか、古井戸、武者隠し、米蔵だとか物見櫓だとか、その場所にあった建築物を示す看板が立てられており、往時の城内の様子に思いをめぐらせることも出来ますが、基礎的な土木工事の痕跡以外には、さほど目を引くものがありません。一部には石垣も残っているようですが、夏草に埋もれてしまったものなのか、確認することができませんでした。
 廃城時期と、軍略上この城が持っていた意味合いとの兼ね合いからか、織田氏の支配下にあった城ながら、さほど先進的な築城技術の用いられていない、どちらかというと古いタイプの山城という印象の長光寺城です。

(2011年09月08日 初掲)















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