楠木正成の篭城戦。
千早城
所在地
別名
大阪府南河内郡千早赤阪村千早
:楠城
築城者
築城年
:楠木正成
:元徳3年/元弘元年(南)(1331)


お城スコープ > お城総覧 > 千早城

■悪党・楠木正成

 源頼朝が開いた鎌倉幕府は、源氏直系将軍を三代で断絶させながらも、執権北条氏の下で140年の間存続しました。しかし、どんな国家や政体にも終わりの時は来るものです。鎌倉幕府の場合、元寇による御家人層の疲弊が引き金となり、後醍醐天皇の挙兵を受けてその支配体制が瓦解していったなどといわれます。
 鎌倉幕府滅亡の原動力となったのが、足利尊氏や新田義貞といった幕府に不満を持った有力御家人らでしたが、これとは別に、幕府から「悪党」と呼ばれた在地の武士団の中からも幕府を滅ぼす力となった者も現れています。河内の武将であった楠木正成は、悪党の中でも最も名高く最も武略に優れた人物で、後醍醐天皇による建武の新政に最期まで付き従ったことから、戦前は「大楠公」とまで呼ばれました。現在ではダーティーなイメージばかりが先立つ「悪党」の呼称ですが、世が世なら正成は義に篤く戦に強いヒーローそのもののような人物だったわけです。
 千早城は、寡兵の正成が数十万とも百万とも言われる幕府の大軍を向こうにまわして篭城した城として、あまりにも有名です。

■伝説的篭城戦

 千早城は、大阪府内最高峰で関西の避暑地としても知られる金剛山に向かう道すがらにありました。今では正成を祭る千早神社となっています。現在では府道が通り、路線バスも行きかうコース上に位置するためにあまり辺鄙な印象はありませんが、実際には背後を高い山に守られた谷あいの地で、交通網が未発達な時代ならば屈強の要塞たりえたでしょう。一度は後醍醐天皇の義軍に参加しながら幕府軍に敗れた正成は、ここに千人ほどの兵を引き連れて、再び幕府に対して反旗を翻しました。
 幕府がこの反乱を鎮圧するために動員した実際の兵数は定かではありません。乱の内容からしても百万と言われる軍勢は多過ぎる気がしますが、仮に大軍が攻め寄せてもそれだけで落とせる城ではなかったでしょう。城の周囲の平地が少ない狭隘な地形は、大軍が持つ利点の多くを封じてしまいます。それに加え、正成は戦術に長け、有名な二重の城壁や藁人形による虚兵の計略を仕掛けたり、崖を攻め上ってくる敵軍に大岩を見舞ったりして、百日にわたる篭城戦を戦い抜きました。幕府が正成の乱を鎮定するためにその力を傾注している間、兵力が手薄になった関東では新田義貞が反幕府の兵を挙げ、鎌倉を攻めました。勢いを増す新田軍を前にして鎌倉幕府はついに滅亡し、その後は後醍醐天皇の親政が始まるかに思われました。

■正成のその後

 しかし、鎌倉幕府時代を経て自分達に政権運営能力があることを実感していた武士の中には、天皇と貴族中心の政治に逆戻りすることを意味する建武の新政に対して不満を持つ者が多く現れました。そしてその旗頭となった足利尊氏により、新政は脆くも崩れ去ることになります。正成も義貞も尊氏の前に敗れ去りましたが、再び天皇を中心とした国体が形作られることになった明治以後、正成は尊王の鑑として大楠公と呼ばれ、時の為政者から称揚され、国民的人気を集めるようになりました。
 正成亡き後、千早城は白井弾正により攻略され、その歴史に幕を下ろしました。城跡にある千早神社は、もともと千早城を守護する八幡社だったようですが、明治期に正成・正行親子を合祀するようになります。神社としての体面が整ったのは、おそらくこの時期のことだったのでしょう。そのおかげで千早城跡は山奥にありながら風化せずに済んだとも言えますが、一方で神社として整備されたがために城の遺構がかなり損なわれた可能性も指摘されています。神社境内の、現在では俗に二の丸・三の丸と呼ばれている区画も果たして往年の城の縄張りを忠実に示したものなのかどうか、定かではありません。研究者の間で城郭時代の面影を残していると考えられているのは、本殿のさらに奥にある本丸跡のみと言うのが実情のようです。ちなみに、私は本丸跡未訪です。「立入禁止」の案内が出ていたので引きかえしたものですが、今にして思えば「社叢に立ち入らないように」と言うことだったのでしょう。

(2009年01月30日 初掲)





















戻る
TOP