戸次川合戦を呼び起こした城。
鶴賀城
所在地
別名
大分県大分市上戸次
:利光城
築城者
築城年
:未詳
:12世紀


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■大友氏の危機

 天正後期の九州は、薩摩島津氏による一人勝ちの様相を呈していました。古豪・豊後大友氏に昔日の勢いはなく、島津氏と同じく新たに台頭した肥前龍造寺氏も、島原沖田畷における島津氏との直接対決で当主隆信を失い、家中は混乱の最中にありました。順当に行けば九州全土が島津氏の手中に納まるのも時間の問題と言う状態でしたが、ひとたび九州の外へ目を転じると、天下は豊臣秀吉の下に統一されつつあり、島津氏に蹂躙されるのを待つばかりとなった諸氏は、相次いで秀吉に救いの手を求めています。果たして秀吉は、親豊臣の大名を救援すべく、島津征伐へと乗り出しました。
 鶴賀城は、島津氏と豊臣氏による直接対決緒戦の舞台となった城です。
 秀吉に対抗するため島津氏が描いた戦略は、早急な九州の統一でした。九州を島津王国として内憂を取り除き、その全戦力を秀吉にぶつける目論みだったのでしょうか。秀吉の援軍が九州に到達するよりも早く残存する敵勢力を倒すため、島津氏は九州北部の各地で猛烈な掃討戦を開始しました。鶴賀城もその際攻略目標にされた城の一つです。ここを落とせば大友氏の居館があった府内の地に王手をかけられる、重要拠点でした。当時大友氏の居城は臼杵城に移ってはいたものの、府内はその名の通り豊前の国府が置かれていた土地で、ここを押さえることには大きな意味があります。

■戸次川合戦

 天正11年(1586)11月、島津家久率いる二万の軍勢が鶴賀城を取り囲んだ時、城には利光宗魚に率いられた三千名ほどが立て籠もっていたと言われています。城兵は良く戦いましたが、島津軍の猛攻を受けて、宗魚自身は間もなく討ち死にしてしまいました。
 篭城側にとっては絶望的とも言えるこうした状況の中、豊臣軍の先遣隊が鶴賀城下に到着しました。参加した将は長宗我部元親、十河存保、仙石秀久らで、豊後と地理的に近かった四国勢が中心の陣容でした。やがて四国諸将は大友氏の軍勢と合流します。連合軍はそれでも数の上で島津軍に後れを取っていたとも考えられていますが、攻城数週間の疲労が残っていると見たのでしょうか、戸次川を渡って島津軍と干戈を交えました。
 いざ戦いが始まってみると、島津軍が押される形になり、大友・四国連合軍はこれを追撃する体勢に入りました。ところがこれが島津軍の罠、かつて耳川で大友軍を敗走させ、沖田畷では龍造寺隆信を葬り去った、いわゆる釣り野伏せの戦法で、敵の懐に深入りしたところで方々から現れた島津軍に取り込まれてしまったため、たちまち連合軍は危機的状況に陥ります。結果、罠にはまった連合軍側では、存保や元親嫡男・信親と言う大将級が討ち死にするなど、大きな損害を受けています。拙速ともいえる戦術は四国勢の総指揮官だった秀久の指示によるものだったと言われ、当の秀久は諸将を置いて一目散に小倉城まで退却しており、今日でもこの戸次川合戦に関しては、家久の采配の妙よりも秀久の大失態がよく語られています。秀久は戦後、改易処分を受けて一時高野山へと追放されました。
 連合軍の壊走後、城は島津軍によって攻め落とされました。島津軍はその余勢を駆って府内をも制圧し、実質的に豊後を支配下におさめました。

■激戦の語り部

 鶴賀城が築かれた時期については、はっきりとしたことが分かっていません。現地の解説を見る限りでは、鎌倉時代はじめに大友氏の初代・能直が豊前・豊後に入ったのと同時期には府内の南を守る拠点として機能していたようにも見えます。利光氏は本来、大友氏の一族だったようです。
 主郭への道は、徒歩道以上林道未満と言った具合にとても良く整備されています。城がある利光山(標高193m)の山容がなだらかなこともあり、上りも大して厳しくはありません。裏を返せば、とても城郭時代の道がそのまま残っていると言えるような状態ではなく、全体に城郭遺構も目立ちません。城跡らしいものといえば、山頂近くに残る削平地や空堀、土塁など。総じて自然地形と紛らわしいのが実情です。残念ながら城跡としては印象が薄い部類に入るでしょう。モニュメントとしては、「城将利光越前守宗魚終焉之地」の碑があります。戸次川合戦をめぐる史跡の一つ、と言った位置づけが妥当なところでしょうか。
 城下には、戦いの中で命を落とした長宗我部信親の墓があります。信親は、土佐の出来人・元親も期待をかけた名将の器だったと言われていますが、彼がこの手伝い戦で横死したことにより、長宗我部氏の運命も次第に狂いを生じて行きます。運命の皮肉を感じずにはいられない、戸次川の古戦場でした。

(2009年06月08日 初掲)



























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