宇喜多直家生誕地とも言われる城。
砥石城
所在地
別名
岡山県瀬戸内市邑久町豊原
:砥石山城
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■三人目の謀将

 何かしらの地域的特性でもあるのか、中国地方の戦国時代には、低い身分から身を興し、謀略をもって主筋を倒し下克上を成し遂げた、謀将型の戦国大名が何人かいます。元は守護代の家の出でありながらその座を失い流浪時代をも経験したとされる出雲の尼子経久、一国人領主として周辺列強の間を立ち回った安芸の毛利元就。そして、備前の戦国大名浦上氏に仕え、ついにはそこからの独立を果たした宇喜多直家もその一例です。
 直家の前半生には不明な点も多いのですが、邑久郡にあった砥石城は、この直家が生を受けた城だと言われています。あるいは直家の生誕地ではないにせよ、浦上家臣時代の宇喜多氏が何らかの形で関わっていた城であろうとは考えられています。

■裏切りの人生

 「備前軍記」によると、砥石城は大永年間に宇喜多能家によって築かれたものだとされています。
 能家は浦上氏に仕え、主の信任も厚い武将だったと言われていますが、浦上家中では島村盛実との折り合いが悪く、砥石城に隠居していたところを攻め殺されてしまいました。その当時に宇喜多の家督を相続していた子の興家は、盛実と戦うでもなく城から落ち延び、宇喜多氏の再興は、砥石落城時は六歳だった、孫・直家の代を待つことになります。
 成人後に浦上家臣団へ帰参した直家は、天文十六年(1547)には、備中の三村氏方の城となっていた砥石城を奪還しました。そして、謀略に長けた直家は、永禄2年(1559)になると浦上家中で権勢を振るっていた盛実に謀反の罪を着せて謀殺するに至りました。ここに宇喜多氏の執念が実ったと言って良いでしょう。
 その後は主君の浦上氏を倒し、備前最大の実力者として、時に毛利氏や織田氏に臣従しながら、敵対する強国に伍して戦って行くことになりますが、人間不信を植え付けられてもおかしくない幼時体験がそうさせたのか、直家は策略家型の武将の中でもとりわけ裏切りと謀殺を良く用いており、現在に至るまでダーティーなイメージで語られることの多い人物です。
 直家は、天正10年(1582)にその策謀渦巻く人生の幕を閉じています。

■小型の山城

 現在の砥石城址は、里山のハイキングコースといった雰囲気に整備されています。登りはじめから山頂部の本丸までは10分少々。高度は大したことがないわりに、平野部に面した丘陵地の縁であるため、眺めはなかなかのものです。
 その連郭式と言われる主郭部、特に本丸ですが、しっかりと平らにならされています。城跡なら当然のことでありながら、その他の遺構が不明瞭な割りにそこだけが整っているため、近年の整備で従来以上に均されたのかも知れません。解説板によれば、山頂部の周囲には腰局輪も存在していたようなのですが、こちらは現在それがあったと思われる場所に木が密生してしまっていてどうにもなりません。
 なお、本丸があるのとは別のピークには出城が築かれており、実際の砥石城はこちらと合わせて一体の城域を形成していたものと思われます。

(2010年04月03日 初掲)















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