歴史の分水嶺となった城。
備中高松城
所在地
別名
岡山県岡山市北区高松
:なし
築城者
築城年
:石川久式
:永禄年間(1558〜1570)


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■係争地に打ち込まれた楔

 備中高松城が築かれたのは戦国もたけなわの永禄の頃のことだったとされています。中国地方に覇を唱えていた毛利氏が、備中の国人領主であった石川氏に築かせたもののようです。少し詳しく調べてみると毛利氏に加担していた三村氏が石川氏に命じたものという情報があり、今風に言うと「孫請け」の形でしょうか。何でも「境目七城」と呼ばれる城の一つだったそうです。
 高松城が位置するのは、南に山陽道を扼し、東に出雲街道を望む交通の要衝です。これはつまり、中国地方で鎬を削っていた安芸の毛利氏、出雲の尼子氏、そして備前の宇喜多氏の勢力の接合点となることを意味していました。毛利氏が高松城近隣に境目七城を集中させたのは、戦略上の必然と言えました。もっとも、毛利氏がこの城によって備えた敵は、時を経るにつれて移り変わっていきました。当初は宇喜多氏を警戒していたらしい毛利氏も、やがてはこの城をはさんでより強大な敵に対していくことになります。尾張に興り、急激な勢力伸張により天下人への道を邁進していた織田信長がそうです。
 

■羽柴秀吉による高松城攻め

 織田氏と毛利氏が本格的な対決状態に突入した時、中国方面軍の総司令官に任じられたのが羽柴秀吉でした。秀吉は調略によって赤松・小寺などの播磨諸氏を織田方へと引き込み、天正5年(1577)に小寺氏の播磨姫路城に入ると、本格的に毛利氏攻略作戦を開始しました。「三木の干殺し」、「鳥取の渇殺し」などが行われたのもこの時期のことです。これらは「城攻めの秀吉」の経歴を飾る代表的な戦績ですが、これらに負けず劣らず有名な城攻めが、ここ高松城で行われた水攻めでした。
 天正10年(1582)、三万の大軍で備中に侵攻した秀吉は毛利方の城を次々と攻め落として行きますが、最後に残った清水宗治と五千の城兵がこもる高松城だけは攻めあぐねていました。高松城は、城の形態で言えば平城に分類される平坦地の城ですが、その周囲を沼地で囲まれていたと考えられ、それが大軍による攻勢をはねつける障壁となっていたようです。
 とは言え、平城は平城。もとより周囲が水場になっていたこともあり、中国役以降に秀吉の知恵袋となっていた黒田官兵衛孝高は高松城が水攻めに弱いことを見抜き、城を湖中に水没させる作戦を立案します。秀吉は官兵衛の献策を受け入れ、全長約2.6kmと言われる堤防を12日間で築き上げました。そこへ付近を流れる足守川の水を引き込み、梅雨時でもあったため、折からの増水で高松城は瞬く間に湖水に沈みました。水攻めは1ヶ月あまりも続いたようです。
 

■本能寺の変勃発

 水攻めと言うと鳥取城や三木城のような凄惨さは感じられませんが、水浸しになった城でろくに食料もないまま1ヶ月を耐え抜くのはかなり過酷な戦いだったようです。もちろん、篭城側もひたすら篭城を続けているだけでは勝ち目がないことは十分承知していますから、毛利本国への救援を要請しています。かくして高松城に駆けつけた毛利の援兵三万。指揮するのは「毛利の両川」と謳われた名将、吉川元春と小早川隆景。しかし、水没した高松城に救いの手を差し伸べるのは用意ではなく、秀吉側としてもうかつに手を出すことが出来ず、事態は膠着状態に陥ります。そこで秀吉は万全を期すため、主君信長の出馬を要請しました。信長は秀吉からの要請を承諾し、中国出陣の準備を開始しますが、本能寺の変はそんなさなかの6月2日未明に発生しました。普通に行けば、実質的な総帥である信長と当主である信長嫡男・信忠を一時に失った織田氏は急速に弱体化し、代わって信長を討った明智光秀が畿内一円を抑えるはずでしたが、それはまた別の話。
 明くる3日には、秀吉の下に「信長、本能寺に倒れる」の報が届いたとされます。本来なら毛利の陣に向かうはずだった密使が誤って秀吉の陣に飛び込んだことから事が露見したなどと言われていますが、とにもかくにも秀吉は毛利方よりも早く信長の死を知ることが出来ました。とにかくこのことを敵方に知られぬよう、秀吉は毛利方の外交僧・安国寺恵瓊を介して講和を成立させました。講和の条件は、開城と宗治の切腹を条件に五千の城兵の命を助けるものでした。宗治の切腹を見届けた秀吉は、急ぎ畿内に立ち帰り、光秀との決戦に臨むことになります。
その後の高松城は、本丸跡が陣屋として利用されるなどしていたようです。もともと平坦な城だっただけに現在まで目立った遺構は少ないですが、現在では城址が史跡公園として整備されており、築堤跡なども見られます。園内には宗治の首塚があり、「浮世をば今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して」という宗治辞世の句碑も建立されています。城址公園には資料館もあり、近くの妙玄寺には清水宗治自刃之阯と彼の墓碑があります。


(2008年03月01日 初掲)



























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