夢幻のごとく。戦国覇者・織田信長最後の城。
安土城
所在地
別名
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
:なし
築城者
築城年
:織田信長
:天正7年(1579)


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■天下人の城

 安土城は、当時天下をほぼ手中に収めるところにまで来ていた織田信長が、岐阜城に替わる新たな居城として、重臣である丹羽長秀に命じて建築を開始させた城でした。京の都に近く、織田氏の基盤である濃尾地区からも離れすぎず、しかも琵琶湖の水運をも握れるという立地から、この地での建築が命じられたのです。この城は、天正4(1576)年の正月から造営が始まり、天正7年に完成しました。しかし、それから3年後の天正十年、主織田信長が京の本能寺に倒れると、安土城もまた業火の中に消え、非常に短命で終っています。その後は近年の発掘調査まで訪れる人もないというありさまでした。
 当コンテンツでも便宜上さかんに使用している「天守」という言葉も、城郭建築において明確に構造物化したのは安土城が最初だとされます(安土城に関しては「天主」)。残念ながら、地上建築物は残されていませんが、最近では発掘調査の結果から、かなり城跡の整備が進められており、信長ファン、お城ファン、戦国マニアであれば一度は訪ねておきたい場所となっています。なお、2006年9月1日より、城地を所有する宛寺が入山料を徴収するようになりました。大人500円、子人(小学生・中学生)100円、幼児無料となっています。開山時間(閉山時間が季節により異なる?)も設定されたようですので、現地訪問前要確認です。
 現在のJR安土駅前には信長像が立っています。安土城は、近くを走るJR東海道本線の車窓からその大きな看板を臨むこともでき、駅からの距離も比較的近くなっています。安土駅周辺にはレンタサイクルの店が数軒あり、これを利用すると駅からのアクセスには非常に便利です(電車の本数はかなり少ないですが)。私はそのうちの一軒、安土観光レンタサイクルさんを利用しました。このとき、地図や安土城とその関連施設、安土城址から近い六角氏の観音寺城の資料一式を頂き、諸々の案内もしていただけました。色々と良くしていただいたので、ここでご紹介させていただきます。

■大手道を行く

 主要地方道大津能登川長浜線側沿いにある安土城址の石碑を見て山側の道へと折れると、すぐに駐車場がありますが、ここから真正面の斜面を登っていくのが見えるまっすぐな石段が「大手道」です。大手道の登り口のあたりに「大手門」があったと考えられています。
 大手門跡を越えて少し石段を登ったあたり、向って左手に羽柴秀吉邸跡、右手に前田利家邸跡が発見されています。前田邸の上手側、宛寺の奥の方には徳川家康邸跡がありますが、現在一般人はここに入ることができないようです。さらに、前田邸の奥には丹羽長秀邸跡もありますが、こちらも恐らくは入ることができない場所なのではないかと思います。
 大手道の戦国城郭建築においては特異とも言えるほどの直登からは、安土城の存在意義とそこにこめられた城主の思想が見て取れるような気がします。
 大手道の石段には、それまで信仰の対象として人々から敬われていたであろう石仏も石材として使用されており、解説表示も併記されています。石臼や墓石を石垣用の石材として流用しているお城はしばしばありますが、仏様はちょっと珍しいです。
 風雨にさらされた年月によるものなのか、それとも踏みつけにされたせいなのか、随分磨り減ってしまっていますが、辛うじて仏様が彫られていた形跡を認められます。信長は神仏を敵視していたきらいがあり、石仏を石段に使ったのは、単に不足した資材の調達という以上の意味もあったのかもしれません。ルイス・フロイスの「日本史」によれば、信長はここ安土城においては、神仏を否定するばかりか、自分自身を神格化していたようです。それを象徴するのが、現在も安土城址に残る宛寺というわけです。
 大手道の坂を登りきり、平坦になった道を少し歩いたあたりが黒金門跡です。門そのものは残っていませんが、道の両側に石垣が迫っていて、かつてはここに門が存在していた事は想像に難くありません。
 このあたりはすでに山の尾根筋に当る道になり、急登はありません。おそらくこのあたりの平らな土地は削平地なのでしょう。比較的限られたスペースであるため、ここにあったのはさほど大きな門ではなかったと思います。ここから先は安土城の心臓部で、大軍の侵入が難しい小さめの門の方が、防衛上は都合が良いという事もあったのでしょう。ちなみに、門の左右に連なっていたであろう石垣も、あまり高くはありませんでした。往時はこの上に城壁も存在していたのでしょうが、この城は全般に敵の侵攻に備えようという意識を感じ取りにくい構造になっているように思います。
 なお、黒金門は二の丸への入り口となっていますが、これとは反対方向に進むと、武井夕庵邸跡、そして信長の嫡男・織田信忠邸跡があります。信忠は本能寺の変に際し、京都二条城で明智軍と戦い、討ち死しています。

■墓碑銘

 本能寺の信長を襲った奇禍は、それだけでも織田氏一門の運命を変転させるには十分すぎるほどの出来事でしたが、嫡男信忠までもが横死した事によって、大きく運命を狂わされたであろう人物が二人います。信忠の弟、安土城跡に墓所のある大和織田氏の始祖・信雄と信孝です。本来ならば、二人とも一生を信忠の家臣という身分で終えるはずだったのでしょうが、本能寺の変は彼らに家督相続の目をもたらします。
 とは言え、史実は秀吉主導による清洲会議の結果を見れば明らかなように、信忠の遺児・三法師が織田氏の跡取と決められました。これに不満をもった信孝は、重臣柴田勝家を頼り、秀吉と戦うも敗れて切腹を命じられ、「昔より 主をうつみの 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」という壮絶な辞世を残してこの世を去りましたが、大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡したのが、信孝32回目の命日の直後だったというエピソードも残っています。
 信孝は、武将としての資質は十人並みで性格に難があったと言われますが、信雄に至っては武将として平均点以下の人物だったようです。信孝と仲の悪かった信雄は、信孝が勝家を頼ったのに対し、徳川家康を頼って秀吉に敵対しています。こうして、家康と結んで小牧長久手役で秀吉と戦った信雄ですが、せっかく同盟者家康が大敵秀吉を向こうに回して奮戦したにもかかわらず、自身は秀吉に丸め込まれる形でさっさと和睦をしてしまっています。
 実はこの信雄には、もう一つあまり誇らしくない逸話があります。安土城が本能寺の変の直後に炎上し、灰燼に帰したのは冒頭述べたとおりですが、この放火犯の正体は現在に至るまでわかっていません。一般には明智勢の仕業だと考えられがちですが、実は光秀が安土城に火をかけなければならない決定的な理由はなく、そればかりか変の勃発時に安土城に詰めていた他ならぬ信雄こそが、火付けの張本人であるとまで疑われている始末です。それほど浅慮な人物というレッテルが貼られているのも、気の毒といえば気の毒ではあります。そんな信雄以下四代の墓が安土城址にあるのは、現地を訪ねるまで知りませんでした。少し意外な発見でした。
 信雄ら4代の墓から見ると上手、天主台の直下に当る二の丸の奥の方には信長廟があります。本能寺に倒れた信長は、文字通り髪の毛一筋、骨のひとかけらも残さない壮絶な最期を遂げています。後日秀吉主催で行われた信長の葬儀では、遺骸どころか遺灰すら見つからなかったため、香木で信長の像を作りそれを火葬したという話があります。当然のことながらここ信長廟も、あくまで廟所であり、遺骨の安置場所であるところの墓所とは完全に性格を異にする場所です。
 とは言え、廟には柵がめぐらされ、立入禁止の注意書きもあり、信雄たちの墓とはうって変わった物々しくも厳粛な雰囲気につつまれています。

■本丸と天守台跡

 二の丸からさらに一段高くなった曲輪が、本丸跡です。ここは安土城を象徴する建造物であった天守閣の直下になり、信長時代には本丸御殿があったと考えられており、発掘調査によってこの場所からは119個の礎石が見つかっています。この本丸御殿は、禁裏にあった清涼殿と非常によく似た建物であったことが、太田牛一著の「信長公記」に記されています。それによると、「一天の君・万乗の主の御座御殿」だった伝えられています。要するにやんごとなき方の御座所という位置付けだったようです。現在は特に目立った遺構は残されていませんが、かなり広めの平地であることから千畳敷と呼ばれています。ただ、南面以外は石垣によって閉鎖された空間となっていて、城内でももっとも高所に位置する場所でありながら、あまり展望はよくありません。
 天主台跡には現在、礎石が残されているのみですが、ここにはかつて五層七重の天守閣が存在していました。宣教師ルイス・フロイスをしてヨーロッパにも比肩する城が存在しないとまで言わしめたこの建造物は、金箔で飾られた瓦などの豪壮な外観ばかりではなく、内部にも当時の文化芸術の粋を結集した装飾が施されていたと伝えられています。当時の建造物の中にあっては余りにも型破りな空中舞台の存在したという説もあるほど特徴的な建物だっただけに、現存していないことが残念でなりません。なお、失われた安土城の天守閣は、城跡からほど近い「安土城天主 信長の館」で再現されています。信長の館の近くには、安土城考古博物館といった施設もあり、JR安土駅の裏手にある城郭資料館とあわせて訪ねてみるのもよいと思います。
 さて、安土城の天守閣には地階が存在し、現在跡地として公開されている場所は、ちょうどその地階部分に当るそうです。安土城は近年の発掘調査の結果、中枢部の主要な建物が地下通路のような形で連結されていた可能性も出てきたそうです。

■振り返って

 ここまでにも少し話題にしてきた展望についてですが、現在も三重の塔が残る旧宛寺跡地のあたりが安土城址最高の展望スポットとなっています。山の西側斜面に当るこの場所からは、琵琶湖につながる西の湖がよく見えます。
 安土城は、観音寺城があった繖(きぬがさ)山と尾根続きにはなっていますが、平地部に大きくせり出す格好になっていて、状態としては独立峰とも言い得るほどです。周囲との比高も決して高くはなく、ピクニック気分で上れる山上の城です。城郭形態の分類上は平山城となるのでしょうか。
 ほぼ全山を以って城となしていたらしいのですが、現在一般人が入れる区画はそのうちの一部にすぎません。あの大手道にしても、安土城全体の構成における位置付けの解明には今後の調査研究の成果が待たれるところであり、表玄関なのか通用口なのか、もしかすると間道だった可能性もあるといった所のようです。それほどに「謎」の部分の多い城ではありますが、それでも敢えて言ってしまえば、軍事拠点としての城砦というより、執政所の印象が強い城跡でした。安土築城の前年に、信長は長篠の戦場で宿敵武田氏に決定的な大打撃を与えており、築城の時点に至っては、日本国内に単独で信長を脅かすほどの敵はなくなっていました。信長の天下統一事業は総仕上げ段階に入っていたといって良いでしょう。もし、この期におよんで織田軍団の中枢である安土城に敵を受けることになったら、その時点で最早先々の希望は潰えるという冷徹な読みが、信長にはあったのかもしれません。
 なお、完全に余談になりますが、今回の安土行きは、電車による旅でした。名古屋駅発の場合、自動券売機で切符を買えるのが、安土駅の一つ手前である能登川駅までで、長蛇の列が出来上がった切符売り場で隔靴掻痒の思いを味わいましたが、ふと、ある事実に気がついたのは、帰路安土駅でのこと。小さな駅なりにここにも自動券売機が設置されていたのですが、これで切符を替える「近距離」区間の東限が、偶然にも清洲駅でした。こういうのを奇しき縁とでも言うのでしょうか。

(2008年03月01日 初掲)































































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