かつての要衝に復元された戦国山城。
足助城
所在地
別名
愛知県豊田市足助町
:真弓山城
築城者
築城年
:鈴木氏?
:不明


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■城とは何か

 今では豊田市の郊外となった三州足助の町は、比較的低い山々が連なる中、川沿い狭い平地に発達しました。信濃伊那地方と三河及び尾張を結ぶ交通の要衝だったため、時代が下ると中馬街道の宿場町として栄えますが、戦国時代以前には、谷あいを見下ろす山上に、いくつもの城が築かれました。足助城はそうしたものの一つで、近隣の城の中ではひときわ知名度が高いと言って良いでしょう。別名は真弓山城ですが、地元でもっぱら足助城と呼ばれるのは、観光地たる足助において、城跡が古くから一種のランドマークだったためもあるのかも知れません。事実、城跡は比較的早い時期から城跡公園として整備が進められていました。そして近年には、戦国山城として復元されるに至りました。山間の小さな復元山城ながら、オリジナルのホームページも開設されており、トップページには「偽りなき戦国の山城。往時のままここに蘇る…」と謳われています。往時の史料が完全な形で残されてはいないらしく、推定復元のようです。ただ、コンクリート製の天守閣が建ったりとか、歴史的に存在しなかった石垣などが築かれたりとか、そういった考証無視の暴挙に走っていないのは好もしく感じられるところです。
 もっとも、一般には未だに「城と言えば白亜の天守閣」みたいな信仰が根強いのか、入場受付のおばさんは、しきりに、天守閣があるような城ではなく、砦みたいなものだと繰り返してくれました。こちらはそれが見たくて来ているのに、そういうエクスキューズが必要になるのは、何となく寂しい風潮のような気がします。と言うか、おばさん本人が戦国山城の復元にさほどの価値を見出していないことの表れなのかと思うと、余計に悲しくなってきます。

■二勢力の狭間に揺れる

 ところで、全国に山城跡は数あれど、まだまだ戦国山城の本格的な復元に取り組んでいるところは限られているような気がします。私自身が既訪のところでは、荒砥城高根城田峯城くらいしか思い当たりません。三城のうち二城が、足助と近縁と言える三河・遠江の山間部に復元されたのも踏まえると、戦国山城復元は、もしかするとこの地域のトレンドなのかもしれません。
 曲輪群は、変形連郭式とでも言うような形に配置されていますが、全体としての規模はそれほど大きくはなく、いみじくもおばさんが言っていたように、砦の復元と言った雰囲気がピッタリです。それでも一応、堀切のような防御機構も備えていますし、腰曲輪も発達しています。防備は南西方向に厚かったようで、つまり信州を背負い、三河方面に守りを固める形です。場所柄、徳川氏の影響下に置かれた時期の長い城でしたが、武田信玄の西進に先立つ元亀2年(1571)に落とされ、天正元年(1573)まで武田氏の支配下にあったようです。天正元年(元亀4年から改元)は武田信玄が死去した年です。先年の三方が原の戦い以後の武田方の動向に疑念を抱いた徳川方が、威力偵察方々攻撃を仕掛けてきたのに対し、早々に城を引き払ったのかもしれません。ともあれ、北面がわりと急峻な斜面となっていたのと同時に、武田氏時代、西三河と伊那を結ぶ拠点の城として、防御能力が強化されたのでしょうか。
 なお、戦国山城としても大規模なものとは言えない城地に建てられた復元建物も、小規模なものばかりです。物見台、物見櫓、厨、高櫓、長屋などがありますが、全てに出入りできるわけではありません。そして、かつて行われた発掘調査の出土品を展示する施設としては復元建物群の規模も小さ過ぎるためか、そういったことも行われていません。戦国山城の雰囲気を良く表す再建建物と割り切って見学するのがベストでしょう。惜しむらくは、明らかに雰囲気を壊しているNHKの鉄塔の存在なのですが。

(2016年04月17日 初掲)





















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