川中島を見下ろす城。
旭山城
所在地
別名
長野県長野市大字平柴
:朝日山城
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■善光寺平を眼下に

 これまでにも北信の領有を巡って川中島で繰り広げられた武田氏と上杉氏の戦いにちなむ城をいくつか紹介してきましたが、旭山城と葛山城ほど両者の対立構図を象徴する城もありません。善光寺平を見下ろす位置に、谷筋をはさんで築かれた二つの城ですが、旭山城が武田方の、葛山城が上杉方の城でした。時期により、その帰属については異同があるものの、概ねそのように考えて良いでしょう。川中島において両陣営が衝突するたび、この二城はそれぞれの前線基地となりました。
 後年になると武田氏は海津城を完成させますが、善光寺平周辺の領国支配をも見越した海津城に対し、旭山城は野戦基地としての性格が強かったようです。城が重要な城を果たしたのは甲越の紛争がこの地域を中心に行われていた時期に限られますが、その期間においても城は、その破却が合戦の講和条件に盛り込まれたために破壊され、再び戦雲がたれこめて来れば再建されるという運命を辿っています。戦時、必要に迫られて築かれた点にだけ注目すれば、陣城のような性質を持った城とという見方も出来るのかもしれません。

■繰り返す戦い

 今のところ、旭山城最初の築城時期は不明です。ただし何であれ、ある程度の規模を備えた城となったのは、武田氏と上杉氏が川中島地方で衝突を繰り返すようになった時期のことであろうと考えられています。天文24年(1555)に発生した第二次川中島合戦では、武田方に着いた栗田氏が旭山城に籠城しましたが、今川義元の仲介により両軍の間で和議が結ばれた際に、城は一度破壊されました。
 しかし、それに続く第三次合戦で、武田軍が旭山城の付城として築かれていた上杉氏の葛山城を攻め落とすと、これに対抗するため今度は上杉氏が旭山城を再建しています。結局、永禄4年(1561)に行われた第四次合戦により、武田氏による善光寺平周辺の支配体制はほぼ確立され、その過程で旭山城も武田氏の手に戻っていますが、前述の通りこの頃には海津城が完成して戦略上の重点もそちらに移っており、旭山城のその後が伝えられることはなくなります。両氏が川中島まで争う必然性が無くなった時期に、廃城になったものと考えられます。

■武田と上杉の混交城郭?

 冒頭で記述したとおり、善光寺と長野市を見下ろす山上に築かれた旭山城ですが、おそらく多くの観光客には全く省みられることのない史跡なのでしょう。今日その城跡を目指す道のりは、あまり目立たず意外に遠い道のりとなっています。まず旭山観音堂を目指すことになりますが、舗装道ながら住宅地や果樹林の間を行く屈曲した狭い道が長いので、歩いて行くと麓からの比高以上に長い行程のように感じられます。
 道が山林に入るとほどなく山頂、つまり主郭部に着きます。堀切、竪堀、土塁、そしてもちろん削平地などがあり、土木工事の痕跡は比較的良く残っている方だと思います。もっとも、それらの城郭遺構から伺える特徴が、武田氏系城郭と上杉氏系城郭のどちらを色濃く呈しているかまでは良く分かりません。

(2011年01月17日 初掲)















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