但馬山名氏最後の城。
有子山城
所在地
別名
兵庫県豊岡市出石町伊木
:なし
築城者
築城年
:山名祐豊
:天正2年(1574)


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■古豪山名氏

 山名氏は室町幕府においていわゆる三領四職の四職家に列せられる有力大名でした。山名氏以外では一般に、赤松氏、一色氏、京極氏が四職家とされますが、山名氏はこの中でも筆頭に位置する一族です。一時は日本全国66カ国中11カ国の守護職を務めたところから「六分の一殿」などと呼ばれたことや、応仁の乱において山名宗全が管領・細川勝元と対立したことなどは山名氏の権勢をよく物語るエピソードと言えます。
 しかし戦国乱世の頃となると、それも「過去の栄光」でしかなくなっていきます。近畿周辺の大名にほぼ共通して言えることですが、室町幕府の枠組み内での勢力争いに終始している間に、周縁部の有力戦国大名に水をあけられてしまったためです。特に織田信長が台頭すると、但馬国と因幡国を領有するばかりになっていた山名氏は、その重圧に直接晒されるようになっていきます。

■四職家の落日

 織田氏の軍団において、中国地方の攻略を主に担当したのが羽柴秀吉でした。山名氏は長らく居城としていた此隅山城(このすみやまじょう)を秀吉によって攻め落とされ、但馬における影響力を維持するため、それに代わる新たな城を築く必要に迫られます。こうして天正2年(1574)に完成したのが有子山城でした。此隅山城の時の「子盗山」に通じるネガティブなイメージが忌避され、新城の名は有子山城とされました。
 しかし、すでに斜陽化している中においてさえ但馬と因幡の二派に分かれて国力を消耗させた山名氏は、新しい時代の力には対抗しきれず、城は天正8年(1580)中に羽柴秀長の手で落とされ、城主堯熙は因幡に落ち延びています。これにより因幡への進軍路を確保した秀吉は、後世に伝わる鳥取城攻めに着手することになったのでした。
 有子山城は、秀吉の弟・秀長、前野長康、小出吉政らによって治められましたが、慶長9年(1604)になると山麓に出石城が築かれ、有子山城は廃城となりました。

■蒼古たる山城跡

 有子山城址には、出石城の裏手から伸びる遊歩道を伝って登城します。一応「遊歩道」の案内が出ていたので安心したものの、これが意外に食わせ物で、道のりはなかなか険しいものがあります。急な坂道、滑りやすい足場、遅かれ早かれ撤去はされるでしょうが行く手を遮る倒木など、有子山山頂まで約30分の道のりは、それなりの覚悟を固めて登る必要がありそうです。
 あえぎあえぎの坂道も山頂近くになるとなだらかになり、それと同時に苔生し古色蒼然とした野面積みの石垣が目に付き始めます。主だった曲輪は尾根筋に連郭式に配置されており、特に321mの山頂に位置する本丸の石垣は、高さ・規模とも見応えがあります。この他、山頂付近には深い堀切や千畳敷と呼ばれる大きな曲輪跡が残されており、まがりなりにも四職家が築いた城らしい構えですが、全体の造りはいかにも旧式という印象です。中世山城がより洗練された近世城郭へと変貌する直前の時期の特徴を呈する城跡として、有子山城は此隅山城跡と共に、国史跡に指定されています。

(2009年07月19日 初掲)















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