西讃岐の堅城。
天霧城
所在地
別名
香川県善通寺市・仲多度郡多度津町
:なし
築城者
築城年
:香川氏
:14世紀


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■霊場と城

 そういう映画の影響なのか、四国は「死国」なのだと説明される事があります。もちろんこんな不吉な当て字を目にする機会もそうはありませんが、伝統的な信仰の形として、そして近頃流行りのスピリチュアリズムの一種として、近年静かなブームを呼んでいる四国八十八箇所巡りが存在するのはそういった土地柄からなのだとか何とか。
 お遍路と城巡り。一見縁のなさそうな取り合わせですが、四国の城の中には四国全域に散らばった八十八箇所の霊場とかなり接近しているものもあります。ここで紹介する天霧城もその一つで、第七十一番札所弥谷寺の背後に控える天霧山に築かれた山城でした。
 「霊場の背後にあるのに『あまぎりやま』と言うのも不吉だなあ」などと考えながら登った天霧城。弥谷寺は、地元では古くから死霊の帰る山として信仰されており、縁起でもない連想も、そうした予備知識を持っていたからこそのものだったのかしれません。なお、天霧山という名前の起源説に関しては、実際に「尼斬山」から転じたものだとする伝説もあります。七尾城にもあった白米伝説の一種で、城が長宗我部氏に攻められた際に米で馬を洗って水不足を隠匿していたところ、たまたま長宗我部の陣近くを通りかかった尼が「あれは水ではなく白米である」と秘密を漏らしたため、落城後に篭城側だった香川氏の手の者に斬られたという話です。プロットの同じ落城伝説が多く存在していることを考えれば、おそらくは後付の起源説なのでしょう。

■三好氏を悩ませた山城

 天霧城の歴史は、守護細川氏の被官で戦国時代の多度津・三野・豊田の西讃岐に勢力を誇り、守護代の座にまで上り詰めた香川氏の詰城として始まったものだとされており、南北朝の頃に築かれたと考えられています。しかし讃岐国内においては屈指の強豪であった香川氏も、積極的に対外進出するまでの実力はなく、むしろ阿波に興った三好氏による圧迫を受けるようになります。
 天文21年(1552)になると三好義賢が本格的讃岐支配に乗り出すべく、讃岐の豪族たちに恭順を迫るという出来事がありました。時の香川氏当主之景はこれに従わなかったため、義賢は自陣営に味方する讃岐の諸将を糾合して香川氏攻めを断行します。一方之景は天霧城に立て籠もり、さらには反三好の西讃諸将もこれに同調しました。こうして勃発したのが善通寺合戦です。天霧城を舞台にした三好勢と反三好勢の攻防は膠着し、ついに義賢は香川氏の本領安堵を条件に和議を結ぶことになりました。
 形式的に三好氏の傘下に納まった香川氏でしたが、三好氏の隆盛は長く続かず、代わって急速に中央政権に食い込んでいた織田信長と誼を通じるなどしています。一方四国の内では、長宗我部氏の台頭に目覚しいものがありました。四国統一の覇望に燃える長宗我部元親を前にして、天正7年(1579)、香川氏はついにその軍門に下っています。ところが長宗我部氏の四国支配も儚いもので、羽柴秀吉による四国征伐が開始されると、之景は元親共々土佐に追いやられる羽目になりました。天霧城が廃城になったのは、主を失ったこの時期の事だと考えられています。

■消えた遺構、残った遺構

 天霧山へは、弥谷寺と海岸寺を結ぶ遍路道を経由して登ります。弥谷寺側から登る場合は薄い踏み跡をたどりながら弥谷山を登りきった後に天霧山へと縦走、海岸寺側(白方地区)から登ろうとする場合は石仏に見守られながら涸れ沢のようなガレ場を行く形になります。二つのルートは弥谷山と天霧山を結ぶ尾根筋で出会い、天霧城への道はそこから分岐します。いずれにせよ行程は比較的長めで、ルート選択次第では道も険しさを増すので、天霧城攻めはなかなか困難な道のりになることを覚悟しておいた方が良いでしょう。
 往事の天霧城には複数の登城路が存在していたようですが、戦後に天霧山で業者による採石が行われ、山容が変わるほどの開発にさらされました。結果、古くからの道が失われたばかりか、開発の脅威は主郭部近くにまで及びました。現在、山頂付近の本丸や二の丸の跡、空堀といった遺構は辛うじて現存していますが、それらに付随する腰曲輪と考えられていた平地は消滅し、断崖絶壁と化しています。もっとも、採石場と反対側の斜面には石塁や古井戸の跡など複数の城郭遺構が残されており、城跡全体で見ればまだまだ見応えは残されています。特に石関係は地方領主の城にしては充実しており、さすが採石場にされるだけの事はあると妙に感心させられるほどですが、これ以上の野放図な開発が進められず、史跡の保存が行われることを望みます。

(2009年02月22日 初掲)



























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