三好長慶の支配した山城。
芥川山城
所在地
別名
大阪府高槻市大字原
:芥川城
築城者
築城年
:能勢頼則
:永正17年(1520)頃


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■室町の闇将軍

 戦国大名の中には、現在名将と呼ばれている人物も少なくありません。三好長慶はそういった名将の一人と言っても良いでしょう。のみならず、彼はある時期まで天下に最も近い大名だったと言っても過言ではありません。そのわりに知名度が低いのは、16世紀後期日本史のメインストリームを作ることになった織田信長と直接干戈を交えることが無かったためでしょう。大永2年(1522)生まれの長慶は、天文3年(1534)生まれの信長よりは11歳の年長ながら、永禄7年(1564)に42歳の若さでなくなっています。同時期の信長は、美濃斉藤氏との対決の真っ只中でした。先立つこと4年の永禄3年には桶狭間で今川義元を倒し、その名は売れ始めていたのでしょうが、上洛などまだ思いもよらず、畿内を主な活動の舞台としていた長慶との直接的な接点が生まれようはずもありませんでした。
 室町幕府管領・細川晴元の有力家臣の家に阿波国で生まれた長慶でしたが、その少年期は決して恵まれたものではありませんでした。父は主君との不和が元で謀殺されています。それでも晴元に臣従をつつける長慶でしたが、結局そりが合わなかったとでも言うべきなのか、晴元の元を離反し、ついには実力でこれを打ち破っています。晴元は室町幕府末期の権力者であり、十三代将軍足利義輝も頼みとする人物したが、彼との争いに勝利した長慶は、将軍までも京から追い、晴元に取って代わることに成功します。時に天文18年(1549年)のことでした。そしてこの勝利により、長慶は管領はおろか将軍に対してさえ政治的優位に立つことになります。長慶が芥川城に入ったのはこのような時期のことでした。

■三好長慶入城

 芥川山城の創建は永正17年(1520)のことだったと考えられています。現地の解説に拠れば、当時の管領細川高国配下の能勢氏による築城だったなどと言われていますが、この時に築かれた城はさほど規模の大きなものではなかったようで、天文22年(1553)に長慶が入城した段階で、幕府最大の実力者の城たるにふさわしい城となるべく面目を新たにしたようです。芥川山城のある高槻の市街地にはもともと芥川城と呼ばれる城がもう一つ存在していたようで、山城の方は本来これに対する詰城だったのかもしれません。Wikipediaによれば芥川山城の方も歴史的には芥川城と呼ばれていたのだとか。
 長慶自身は永禄3年(1560)に飯盛山城に移り、後には子の義興が入りますが、義興はその永禄6年に死亡。彼の死については下克上の典型のような長慶のさらに上を行く梟雄・松永久秀による毒殺が疑われていますが、真相はともかくも義興の死が長慶の心身に深い傷跡を残したのは事実だったようで、失意の長慶は翌年に息子の後を追うように亡くなっています。
 後、織田信長の上洛に伴い三好氏勢力は芥川山城から追われ、代わってこの地域を与えられた和田惟政は、高槻城に入っています。このため芥川山城の重要性は低下し、程なく廃城になったと考えられています。

■良好な遺構

 芥川山城には、石垣、空堀、曲輪跡、土橋等々の遺構が良好な状態で残されており、まずまず見所のある城と言って良いと思います。特に石垣などはかなり保存状態が良いというか整いすぎているような気もするため、後世の林業従事者が積み上げたものではないかと疑いの目で見てしまったほどです(真相は未詳)。
 それもさることながら若干気になったのが城の縄張りで、甲信の山城のような峻険さがなく、ちょっと物足りないような気がしたのも事実です。比較的平坦で屈曲の少ない一本道が大手口から本丸まで延びており、それにより各曲輪が結ばれる縄張りはあまり実戦本位ではないようにさえ思えてしまいました。曲輪間の連携にもやや難があるように見えます。敵勢に横矢ぐらいはかけられるかもしれませんが、一見しただけでは攻めるに易そうです。趣味で登城したり山野ハイキングで歩くには好都合なのですが、戦時の防御能力がどの程度のものだったのかは興味を引かれるところです。築城年代の影響もあるのかもしれません。畿内の地域特性もあるのかもしれません。そんな野次馬根性を持ちながら登ってみても面白いお城です。おそらく実際には、それほど目立った欠陥などなかったのでしょう。

(2008年04月22日 初掲)





















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