四十七士の城。
赤穂城
所在地
別名
兵庫県赤穂市上仮屋
:大鷹城、加里屋城
築城者
築城年
:宇喜多秀家
:天正年間(1573〜1592)


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■赤穂城の起こり

 赤穂城の歴史は室町時代の中頃に赤松満祐の一族が東有年にあった大鷹城をこの地に移した事に始まるといわれています。当時の城の規模はまだ小さなものだったと考えられていますが、天正年間にこの地域を治めるようになった宇喜多秀家が、ここに陣屋を築きました。その宇喜多氏は関ヶ原の戦いにおいて西軍に与したため、戦後処理の中で所領を取り上げられ、秀家自身は八丈島へと配流になりました。秀家は、八丈島でその後五十年に及ぶ人生を過ごしています。
 宇喜多氏に代わってこの地を治めることとなったのが、姫路城主だった池田輝政です。当初は姫路藩の一部として輝政の家臣が入れられているばかりだったものの、後の元和元年(1615)に輝政五男政綱が三万五千石(あるいは五万四千七百石とも)で宗家筋から独立、赤穂藩の始祖となります。この池田氏の治世に、近世赤穂城の基礎が作られました。
 

■二つの軍学

 しかし池田氏が赤穂城の主だった期間は短く、政綱の弟輝興の時には輝興の乱心が元で改易処分を下されています。変わって入封したのが、「赤穂の殿様」としてあまりにも有名な浅野氏、浅野長道でした。長道は、赤穂城に入った翌年には甲州流軍学者近藤正純の縄張りによる築城を開始。さらには築城工事の進む中、今度は山鹿流軍学で知られる山鹿素行の意見を取り入れて二の丸虎口の縄張りを変更しています。すなはち赤穂城は、甲州流と山鹿流という江戸時代を代表する二つの軍学の思想を取り込んで築き上げられた稀な城だということになります。
 縄張りは、本丸の周りを二の丸が囲む輪郭式と、二の丸と三の丸が連結する梯郭式とを組み合わせた独特のものとなっており、変形輪郭式縄張りと呼ばれています。各郭間に段差が存在しない、本当の平城でした。天守台こそ現在まで残されているものの天守閣は築城当時から存在しませんでした。財政的に困窮していたためとも、幕府にはばかったためとも言われています。
 

■忠臣蔵の話はあまりしない

 さて赤穂城といえば、というより赤穂と言えば赤穂浪士でしょう。度重なる辱めに耐えかね江戸城松の廊下にて刃傷におよび、その責めを負って切腹して果てた主君と、断絶した主家の無念を果たすべく、四十七人の浪士が敵と狙った相手を抹殺する物語は、長らく日本人に好まれてきました。JR播州赤穂駅で電車を降りると、構内と言わず駅前ロータリーと言わず、とにかく赤穂浪士の姿が目に付きますが、この傾向は城に入っても同様です。堀を渡って城門をくぐり、巨大な石垣によって作られた枡形にぶつかると、にわかに城跡訪問の気分が高まってきますが、その後に待ち構えているのは城郭遺構ではなく大石内蔵助の屋敷跡です。赤穂藩の筆頭家老の屋敷なのですから、城地にあっても不思議ではないですし、その意味では城の痕跡には違いないのですが、周囲では内蔵助邸と彼を祭った大石神社以外は特にこれと言うものも目につかないので、少々肩透かしを食わされた気分。どうやら現状の赤穂城址は、城跡半分・市街地半分といった奇妙なバランスで成り立っているようです。城そのものの整備は2007年8月時点では現在進行中といったところのよう。
 忠臣蔵好きの人なら感動が味わえるかもしれません。私はそちら方面にはあまり興味がないもので…。大の男五十人近くが、経緯はどうあれ爺さん一人を憎悪する物語というのもあまりそっとしないと言うのが本音です。
 

(2008年03月01日 初掲)















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