短期で破却された近世城郭と城下町の面影。
秋山城
所在地
別名
奈良県宇陀市大宇陀春日
:宇陀松山城、神楽岡城
築城者
築城年
:秋山氏?
:不明


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■豊臣恩顧の城

 秋山城の歴史は、この地を統治していた国人領主・秋山氏の居城に始まると考えられています。時代が下り、豊臣秀吉のもとに天下統一が成ると、大和郡山城には秀吉が右腕と頼んだ実弟・秀長が入りました。この際、秋山城は大和国内を支える重要な拠点として、近世城郭への改修が施されたと考えられています。さらにそれから10年余り、関ヶ原の戦いの戦後処理を受け、当地には福島正則の弟である福島高晴が封じられました。
 現在城跡で見られる遺構と、宇陀松山の町並みの基礎は、高晴時代に整備されたものだとされています。高晴自身は決して著名な人物だとは言えませんが、兄・正則が後年広島城の無断修築に事寄せて改易されるのに先立ち、やはり慶長20年(1615)に改易されています。大坂役の際に大坂方に内通していたと疑われたためだとも言われるほか、平素の不行状というか家中不和が発端となって幕府の詮議を受けること度重なったため、ついに改易に至ったものだとも言われており、真相は詳らかではありません。

■城下町宇陀松山

 高晴が残した秋山城は、彼の改易に際して破却されました。この工事を担当したのが、むしろ作庭家として名高い小堀遠州政一です。以後、宇陀松山は信雄系織田氏の統治を経て、幕府の直轄となりましたが、城は築かれず陣屋が置かれるのみでした。秋山城は約400年前に廃されたということになります。しかし、比較的最近になって発掘調査が行われたらしく、城の痕跡を示すものも多く見つかりました。現在の城跡は、蒼古とした古城跡と言うよりは、再整備された山城の跡と言う雰囲気ではありますが、一応は石垣が存在している他、枡形虎口や天守台の遺構を残しています。山頂部を大きく均した土木工事の規模は、戦国山城と言うよりは、優れて近世城郭的と見なすことができるでしょう。
 なお、一般に宇陀松山は城下町としてよく知られています。国の重要伝統的建造物群保存地区となっていて、知名度としては他地域の有名観光地に一歩譲りますが、なかなか趣深い町並みを残しています。秋山城は近世初頭に失われましたが、この町並みは、秋山城の成立に由来するものと言って良いのでしょう。

(2017年07月07日 初掲)

















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