織田の本拠に残る織豊系山城。
明知城
所在地
別名
岐阜県恵那市明智町
:白鷹城
築城者
築城年
:遠山景重
:寛元5年(1247)頃


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■伝説を訪ねて

 岐阜県内には「あけち」と言う地名が何箇所かに存在しています。特異ではないにせよ、どこにでもあるわけではなさそうなこの地名から、明智光秀の存在を連想するのは難しいことではありません。一般に人の姓名が地名に化する例よりも、地名に起源を持つ姓の例の方が多いことからして、明智光秀がこれら「あけち」と言う土地の出身者である蓋然性は高いような気がします。
 角川地名辞典には、可児と恵那、それぞれの「あけち」地区に関する記述が見られますが、可児のそれに関する伝承が古代にまで遡るのに対し、恵那郡の明智は、南北朝時代の史料に見られるのが初出のようです。いずれも、明智光秀の出身地であるとする伝説の残る土地ですが、「お城スコープ」では、マニアクスにおいて、可児市内にあった明智城の跡を取り上げています。そして両論併記ではありませんが、それと同等程度の扱いで取り上げようと訪ねたのが、恵那の明知城でした。ただ、市街地の片隅に逼塞していた可児明智城に対し、こちらの明智城は一個の山城遺構としても見所が多いため、独立した一項を設けることにしたものです。

■比較的大規模な山城

 明知城の名残である城山は、高山峻岳というほどではありませんが、後背に山を背負う丘陵地に手を加えて城郭化されていたようです。光秀伝説よりは信憑性のある伝承によると、初めて城が築かれたのは鎌倉時代のことで、現地の看板に拠れば遠山景重の築城であるとされています。複数の曲輪や空堀などの土木工事跡があり、ごく部分的なものながら石垣も残されています。規模も決して小さくはなく、一土豪の城の範疇は明らかに超えています。後年、織田氏陣営に組み入れられているため、その際に東濃の防備を固めるべく整備された物でしょう。城跡の一部には光秀伝説の伝えられる天神社もありますが、こちらについては、伝説の域を出ない史跡のようです。
 なお、この城をめぐる逸話で史実性の高いものとして、現地では武田氏と織田氏が争っていた時期の攻城談が語られています。信玄亡き後、武田が勝頼に代替わりをし、織田方では東濃の領主・遠山氏が明知城を治めていたころ、武田の部将・山県昌景の来攻に際し、信長自身が救援に赴いたものの、敵勢の戦巧者ぶりを警戒し、城を見切ったというようなことがあったようです。時に天正2年(1574)のことで、城は落城したと伝えられています。

■光秀伝説

 最後に光秀伝説を。この地の言い伝えでは、光秀は城に近接する千畳敷砦で生まれたとされ、現地には産湯の井戸と呼ばれるものがあるとのことです。さらに同地には、この他にも光秀自身や生母の供養塔、光秀ゆかりの品と言われる衣を寺宝とする龍護寺などが残されています。
 ただ、いずれも史料的な信憑性が希薄なためか、明知城そのものは、光秀にゆかりの城としてではなく、あくまで一個の山城跡として、保存されています。

(2013年12月25日 初掲)















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