駅から見える城。
明石城
所在地
別名
兵庫県明石市明石公園
:喜春城、錦江城
築城者
築城年
:小笠原忠真
:元和5年(1619)


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■駅から見える城

 日本の標準時を決める東経135度の子午線が通る街として知られる明石市の玄関口となっているのが、JR明石駅です。駅のすぐ北には明石城址を整備した明石公園があり、駅のホームに立つと、あるいは通過列車の車窓からでも、明石城に残る巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら)の姿が良く見えます。この明石上の姿は、JR山陽本線の車窓の中でも印象的な風景の一つでしょう。もともと私は明石城に対してそれほどの興味は持っていなかったのですが、明石駅を通るたびにこのお城が視界に飛び込んでくるため、いつしかとても気になるお城の一つになっていました。
 明石駅のホームは高架になっており、周辺のビルの2〜3階程度に相当する高さだと思いますが、ホームに立つと二つの櫓がちょうど目線の高さあたりにくるように見えます。明石城は、海に面した高台の上に建設された平山城でした。
 明治の頃、役割を終えた城のあとには広大な土地が残りました。ある城は官公庁舎に生まれ変わり、ある城は軍の鎮台になりました。鉄道駅になった城もあります。史跡であるはずの城跡が現在に至るまでに破壊しつくされている事は珍しくないのですが、どうやら明石城は首の皮一枚で駅開発のための破壊を免れたようです。
 

■沿革を駆け足で

 明石城は、徳川家康の外孫に当たる小笠原忠真によって築かれました。忠真は大阪の陣で功があったために十万石で明石市内にあった船上(ふなげ)城に入ったのでした。しかし元和二年(1616)に明石城の築城に着手、同五年に完成すると、間もなく船上の城を出て明石城に入りました。築城には船上城をはじめ、伏見城、三木城の部材が使われました。このため城の傷みが早かったとも伝えられますが、幕府からも築城費用を補助されたと言われています。この築城そのものが、小笠原氏に徳川将軍家の親藩として、西国の鎮めである姫路城の支えを担わせようとした当時の将軍・二代秀忠の意向が働いたものだとも考えられています。
 城は最高点に正方形の本丸を配し、東に二の丸、その下に三の丸を備えている他、稲荷郭などが設けられました。そしてそれらを取り囲むようにして数箇所の堀がめぐらされています。本丸坤櫓の北側には天守台が配されているものの、明石城には元から天守閣がありませんでした。この城が完成に近づいた頃には天下太平の世を迎えていたために、もはや天守閣は無用のものだと考えられたようです。
 もともとは将軍秀忠の肝煎りで始まった城の工事も、一説にはいつしか城主忠真の独断で改修が進められるようになり、他の多くの大名がそうだったように、忠真もまた幕府に無断の工事を咎められて豊前の小倉に転封されたと言われています。もっともこの転封のおかげで小笠原氏は九州各地に一族の者を配置する結果となり、国替えが左遷だったのか栄転だったのかの判断は難しいところです。
 寛永9年(1632)に小笠原氏が去った後には戸田氏、大久保氏、松平氏、本多氏と城主が変わり、天和2年(1682)に松平直明が入ってからは明治維新まで松平氏10代にわたる支配が続きました。
 

■宮本武蔵は明石の街づくりに関わったか?

 明石城について調べてみると「宮本武蔵が明石の城下町建設に関わった」としている資料が結構目に付くのですが、これはどうも異説もある話のようで、有名な剣豪の宮本武蔵ではなく、同名異人だったとする説もあり、未だに評価が定まっていない様子。果たして実際はどうなのでしょうか。剣の達人は街づくりにおいても優れた手腕を見せたのでしょうか。宮本武蔵は多芸の人としても知られています。
 すでに述べたとおり明石城は海が近く、しかも明石市内でも最も繁華な一角の高台にあるため、本丸からは明石海峡とそこにかかる明石海峡大橋の様子が良く見えます。現在は明石公園として明石の街の人々から愛されているこのお城では、休日になると雨の日を除いて現在にまで残された二つの櫓の内部を週変わりで公開しています。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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