高虎の築いた山城。
赤木城
所在地
別名
三重県熊野市紀和町赤木
:なし
築城者
築城年
:藤堂高虎
:天正17年(1589)


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■藤堂高虎の山城

 藤堂高虎は築城の名手であると、これまで幾度このサイトで紹介してきたか分かりません。これまでにも彼が関わって築かれた城(伊賀上野城津城篠山城宇和島城今治城)を取り上げていますが、実はそのいずれもが開けた平野・盆地にある近世城郭の範疇に含まれる城でした。
 ここで俎上に載せる赤木城は、高虎の手になる城でありながら、熊野の山間に築かれた山城です。天正17年(1589)という築城時期を考えれば、戦国山城と呼ぶには新し過ぎるのも事実ですし、実際に赤木城がかなり先進的な構えの城であったことはその遺構からも推察されますが、しかし藩政期の政庁となる城造りにおいて実績を残したイメージの強い高虎が、このような山奥にこれだけの城を築いていたのは意外でした。

■一揆との戦い

 赤木城の築城は、高虎がこの地の代官を勤めていた時期であると推定されていますが、既存の城を改修したのが高虎であったとも言われています。もともと紀伊のこの地域には、強大な勢力を誇る大名も存在しませんでした。まして天正17年と言えば、豊臣秀吉が小田原北条氏を下して名実共に天下統一を成し遂げる前年のこと。さほど大きな城が必要とされなかったと言うことなのでしょう、現在見られる遺構の規模もさほど大きくはありません。
 高虎はここ北山の代官を11年間勤め上げ、後に伊予へ移封されています。その間、木材として重要な北山材の切り出しを取り仕切るかたわら、二度の一揆鎮定を行っています。赤木城は秀吉に敵対的な支配者層と戦うために築かれたのではなく、不満をくすぶらせる被支配層の一揆に備える意味合いが強かったと考えられます。国持ち大名の派手さはありませんが、堅実な政治手腕が求められる領国経営だったのでしょう。

■取り入れられた近世城郭の技法

 しかし小規模とは言うものの、現在の城跡を歩いてみると、縄張りの至るところに石垣をめぐらせ、尾根の要所を堀切によって切断して防御力を高めていることがわかります。さすが築城巧者高虎の城とも言ったところでしょう。地選、設計思想には中世山城のそれを色濃く残しながら、赤木城の土木技術には、近世城郭のそれと比較して遜色ないレベルのものが用いられていたと考えられています。
 廃城時期は定かではありませんが、大坂の陣前夜には豊臣方に通じて熊野地方のたちが蜂起しており、当時和歌山藩主だった浅野氏によって征伐されています。後年になると、このときの一揆の残党を一掃すべく、津城主となっていた高虎に声がかかったという逸話もあり、その中で赤木城の名が出て来るようなので、この時期までは存続していたということになりそうです。

(2011年01月27日 初掲)























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