白虎隊の城。
会津若松城
所在地
別名
福島県会津若松市追手町
:鶴ヶ城、黒川城
築城者
築城年
:芦名直盛
:弘和4年(南)/元中元年(南)/永徳4年(北)/至徳元年(北)(1384)


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■黒川城・芦名氏の時代

 会津若松城の前身は、黒川城と呼ばれていました。源頼朝による奥州平定の後、会津は佐原義連に与えられ、義連から三代目の光盛の時に芦名氏を称するようになりました。もっとも、当時の佐原氏は相模国三浦郡に住んでおり芦名の姓はその頃の居住地に由来したものです。芦名氏が実際に会津に入ったのは七代目にあたる直盛の時だったといわれているようです。時は至徳元年(1384)のことで、頼朝の頃からは200年近くが過ぎていました。そして芦名氏が会津に入るに至って築かれた城が、黒川城です。ただ日本の多くの城がそうであるように、この時期の黒川城は平時の居館が若干防御力を高めた程度のものだったのではないかと考えられています。
 芦名氏は二十代にわたって続きましたが、天正17年(1589)義広の時に磐梯山麓摺上原で伊達政宗と戦い敗れ、滅亡しました。黒川城はこの時に政宗の手中に収められたものの、翌年に政宗が小田原に参陣した時に豊臣秀吉によって取り上げられ、今度は蒲生氏郷に与えられました。氏郷の時に七重の天守や堀、二の丸・三の丸を備えた近代城郭の基礎が形成されました。その折に、城は鶴ヶ城、街は若松と名を改められました。
 

■鶴ヶ城として近世城郭に生まれ変わる

 氏郷の子・秀行の時、蒲生氏は宇都宮に移されました。後には、越後春日山から上杉景勝が加増転封されていますが、景勝は関ヶ原の戦いで徳川家康と敵対、終戦後は家の取り潰しこそ免れたものの米沢へと減転封となり、再び蒲生秀行が会津の藩主に返り咲きました。ところがそれもわずかの間のことで、秀行の子忠郷の後、蒲生氏は無嗣断絶となり、次いで加藤嘉明が入れられるも、子の明成の時に改易処分に書されています。短い期間のうちに城主が転々とした鶴ヶ城も、寛永20年(1643)に保科正之が入ってからは保科藩として定着します。そして会津保科氏三代正容(まさかた)の時、松平を称するようになりました。会津保科氏はもともと、三代将軍家光の弟から始まった家柄でした。
 以後、会津の藩主は松平氏が代々つとめ、容保(かたもり)の時に明治維新を迎えました。ところが、鶴ヶ城を襲う悲劇的な運命は、まさにこの時にやって来たのです。
 

■会津戦争

 幕末の頃、容保は京都守護職という要職についていました。尊皇攘夷の志士を取り締まるのを主たる役割としたこの職は、倒幕の動きが激しさを増す幕末の時期には、非常に過酷な役職となっていました。事実容保は、当初この厳しい職に就くことを固辞していたと言われますが、最終的には幕府への忠義から任を引き受けています。そして明治維新を迎えるまで、容保はその責を全うしました。
 ところが明治新政府が樹立すると、それまでの価値観は大きく覆されます。京都守護職として志士たちの弾圧を進め、禁門の変では長州藩を朝敵として討伐するなどした容保は、今度は自身が新政府から朝敵として攻撃される事となります。こうして始まったのが会津戦争で、鶴ヶ城はこの時新政府軍の猛攻にさらされています。城は当初政府軍の砲撃にも耐え、と言うより政府軍が所持する新鋭の兵器をもってしても城を有効射程距離に捉えることができなかったのですが、やがて山上から砲弾を浴びせられるようになるとさしもの名城も甚だしく損傷していきました。
 ここで白虎隊にまつわる有名なエピソードを紹介しておきますが、15〜17歳の少年藩士によって編成されるこの部隊の生き残りは、鶴ヶ城の北東飯盛山に逃れ、そこで炎上する城の姿を目撃して自刃の道を選んでいます。ところが城が燃えていると見えたのは少年達の勘違いで、城は1ヶ月あまりの攻撃に耐えた後に開城しています。城跡は明治2年(1869)に若松県庁となり、新庁舎完成後に天守閣などの建物は全て取り壊されました。
 現在、会津若松城の名で全国に知られるようになった鶴ヶ城公園には、江戸期以降の五重天守が復元され、会津戦争の凄惨も含め、会津若松の歴史を伝える博物館となっています。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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